マルコ 6:45-56

「みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」(6:50)

イエス様の素晴らしい御業をどんなに体験しても、嵐の中で、湖の上を歩いて近づくイエス様を、弟子たちは認識できませんでした。

そんな弟子たちに、イエス様はすぐに話しかけてくださいました。

「わたしだ」

と訳された言葉は、燃える柴からモーセに語られた神ご自身の名前と同じです。

モーセが神の名を尋ねると神はこう言われました。

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出三・十四)

これは、英語のBe動詞にあたる言葉で「存在」を意味します。

「わたしはここに存在している。」

神の御業を忘れ、パニックに陥っている状況の中で、イエス・キリストは近づいてきて、

「わたしはここにいる。恐れることはない。」

と語ってくださるというということです。

マルコ 6:30-44

「イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」」(6:38)

イエス様が教えられているうちに、時刻も遅くなってしまいました。

弟子たちは、めいめいが食物を調達できるように解散してくださるように、イエス様にお願いしました。

するとイエス様は弟子たちに、「必要が分かっているなら、あなたたちが与えなさい」と言います。

しかし、弟子たちは、男だけで五千人の食料を準備することは不可能でした。

イエス様は弟子たちに、「ない」ものではなく、「ある」ものに視点を移行するようにさせます。

そして、できないと逃げるのではなく、向き合うようにさせました。

もちろん、イエス様が、みな、食べて満腹するようにしました。

しかし、このイエス様の働きに、弟子たちが向き合うようにされたところに、大きなポイントがあります。

私たちが求められていることは、私たちがもっているものです。

マルコ 6:14-29

「これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。」(6:18)

ヘロデはユダヤ人ではありませんでした。

さらに、ヘロデは「王」ではなく、ローマ帝国から委任統治が託された「領主」でした。

しかし、彼はユダヤ人たちの「王」として認識して欲しいという思いがありました。

バプテスマのヨハネのポイントはこういうことです。

「ユダヤ人の王」は「油注がれた者」、「メシア」のことであり、「メシア」は兄弟の妻と結婚するようなふるまいはしないと指摘したということです。

結局、ヘロデとヘロデヤは、カリグラが皇帝になった時、現在のフランスに流刑となり、不名誉な死に方をします。

バプテスマのヨハネは、確かに、理不尽な最後でしたが、「ユダヤ人の王」とは誰かを明確に示し、自分の使命を果たして召されました。

ヨハネの使命は、イエス・キリストを指し示すことでした。

目指せ!エパフロデト

デボーションでピリピ人への手紙を読んでいます。

パウロは多くの手紙を諸教会に書き送っていますが、時には厳しく、時には宥めるように指導している様子を見ながら以前とはまた違った視点で様々な気づきがあり、楽しく豊かな神様との時間を過ごしています。

そんな中でいまは特にピリピ2章に出てくるエパフロデトが心に留まっています。

パウロは彼のことを「わたしの兄弟、同労者、戦友」と紹介しています。

パウロの宣教活動を支えた人物としてはテモテやプリスキラ、アクラが有名ですが、エパフロデトに対する思いは特別強いように感じました。

パウロが経済的に厳しい状況の時に支えてくれたことや、命をかけて助けてくれたことなど、どれほどその存在が心強かったかが伝わってきます。

これまではさらっと読んでいたエパフロデトに関する記述が、今回は感動と共に心に迫ってくるのです。

それはわたし自身の献身者としての歩みの振り返りとも重なってきます。

エパフロデトのような方々の支えがあったことを感謝すると共に、わたし自身も誰かのエパフロデトでありたいという祈りへと導かれています。

(小山晶子牧師婦人)

マルコ 6:1-13

「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」(6:7)

古代ギリシアの哲学の一派に、キュニコス派、犬のような生活をしたので、「犬儒学派」と呼ばれるグループがありました。

彼らは金持ちや貴族たちに対して吠えることでも有名でした。

自分たちの財産所有を放棄し、簡素な生き方を追求する「放浪の哲学者」でした。

彼らとイエス様の弟子たち違いは歴然としていました。

彼らは汚れた霊を追い出す権威はありませんでした。

彼らは、この世界はもう手遅れで、何か新しいことが起こるなどと考えもしませんでした。

しかし、イエス様の弟子たちは神の国を宣言する人たちであり、今から新しいことが起こるから、それに備えるように訴えました。

要するに十二弟子の派遣のポイントは禁欲生活ではなく、イエス様の十字架の死と復活を通してもたらされる「新しい始まり」の緊急性です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 5:21-43

「彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。」(5:27)

「さわることによって癒される」ことは奇妙な現象です。

しかし、ここに大事なメッセージがあります。

群衆のような問題が押し寄せてきていても、イエス様の後ろにいくスペースはあり、手を伸ばしてさわることができるというメッセージです。

「恐れと信仰」が混ぜ合わさった中でも、手を伸ばし、イエス様に触れる時、神の力が解き放たれます。

そもそもイエス様の力が彼女を救ったのでしょうか。

それとも、彼女の信仰が彼女を救ったのでしょうか。

もちろん、イエス様の力が彼女を救いました。

しかし、イエス様はこんなことを言います。

「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(34節)

つまり、イエス様の力は、私たちの信仰をコネクターとして解き放たれるということです。

どんなに弱くても、私たちの信仰が神の力と私たちをつなぐものとなります。

マルコ 5:1-20

「イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。」(5:8)

「汚れた霊」「悪霊」とは堕落した天使たちのことです。

ナルニア国物語の著者、CSルイスはこう言います。

「悪霊に関して私たちが陥りやすい、二つの、等しく、かつ相反する間違いがある。1つは、悪霊の存在を信じないこと。もう一つは、悪霊の存在を信じて、過度にそれを意識し、不健全な興味を抱くことである。悪霊らは、この両方の間違いに喜び、物質主義者や魔術をする者を同じ喜びで迎える。」

今日の箇所が明確に教えていることは、悪霊であっても、神の御子イエス・キリストの命令には逆らえないということです。

神と悪魔が対立しているわけではありません。

神は絶対的なお方です。

悪霊であっても神に逆らうことはできません。

ですから、悪霊は人を利用します。

不満や憎しみは悪魔の常套手段です。

イエス様の十字架の御業、愛と赦しが人を解放します。

マルコ 4:30-41

「さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。」(4:35)

弟子たちは、イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と言われたので、一緒に舟に乗って出かけました。

ところが、そこで激しい突風が起こります。

イエス様に従って一歩踏み出したとしても、神のみこころの真ん中に生きていても、突風が吹いてくることはあります。

イエス様が乗っていても嵐が起こりました。突風が吹きました。

しかし、イエス様がされたように、どんな嵐の中でも、父なる神の臨在の中で、安心して枕をすることができます。

なぜならば、神はどんな嵐をも静めることができる、すべてを治めておられるお方だからです。

イエス様が「かまわないのですか。」という弟子たちの問いかけに、応じられたという意味は、私たちのことを心にかけておられるということ以外の何ものでもありません。

マルコ 4:21-29

「イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。」(4:21)

イエス・キリストは神の国、神の統治の話を、自分を囲む中の人たち、イエス様につき従っていた人たちに話しました。

しかし、この神の国の良き知らせは、この世界に神の光をもたらすことであり、すべての人がそれを見ることができるようにするためだと言いました。

驚くことは、イスラエルという中東の小さな国の、しかも首都ではない、ガリラヤという田舎町の片隅で、イエス様を囲む一握りの人たちが聞いていたこのメッセージが、今、全世界に現わされているということです。

イエス様は言われました。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(16:15)

イエス様の教会は閉鎖的になってはいけません。升の下に置いてはいけません。

すべての人に福音を伝えていきましょう!

マルコ 4:10-20

「また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」(4:8)

四、五、七節の種は、単数形が使われているのに、八節は複数形が用いられています。

ある種は、道端に落ちるかもしれない、ある種は、岩地に落ちるかもしれない、ある種は、いばらの中に落ちるかもしれない、しかし、多くの種は、良い地に落ちて、実を結ぶのだというたとえということです。

小河陽先生は、この種蒔きの譬の中心的使信を、このようにまとめています。

「あらゆる表面的現象にもかかわらず、確実に到来する神の国である。農夫はどんな種蒔きでも、度重なる失敗にもかかわらず、その仕事をやりとげる。同じように、イエスによって樹立される神の国は、多くの眼に余る失敗や挫折を経験したうえでしか完成されないが、最終のそして期待を越える、あり余るほどの収穫は確実である」

時が良くても悪くても、御言葉の種をまき続けましょう!