詩篇 52:1-9

「しかし私は神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む。」(52:8)

ダビデがより頼むと言った「神の恵み」と訳された単語は、神の契約に対する信実の現れ、神の信実の愛です。

神の信実の愛、神の尽きることのない愛に信頼する人は、「神の家に生い茂るオリーブの木」のようだと言います。

もっとも、パッション訳ではこのように訳しています。

しかし、私は生い茂るオリーブの木のように、神の家で油注がれた者。

「神の家」、すなわち、教会、神の臨在の中で、人は「油注ぎ」を体験します。

「油注ぎ」とは何か、いろいろな意見が分かれるトピックですが、オリーブ油は神の家では聖なる目的のために使われました。

つまり、聖なる目的のため、すなわち神の働きをするために神から特別に注がれるものです。

それは、言葉に表すことが難しいのですが、求める者に聖霊様が特別に臨んでくださるような体験であり、力が与えられる体験です。

詩篇 51:1-19

「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(51:17)

「砕かれた霊」「砕かれた、悔いた心」、すなわち、「打ちのめされた心」が神へのいけにえだと言います。

神からの霊に満たされるためには、人は、自分の霊、心を神にいけにえとして捧げる必要があるということです。

それはまた、打ち砕かれた夢、砕け散った思い、壊れた心を、神へいけにえとして捧げることでもあります。

興味深いことに、メッセージ訳では、こんな訳をしています。

「自分のプライドが打ち砕かれた時、私は神を礼拝することを学んだ。愛を受け入れる準備ができている打ち砕かれた心の人生は、一瞬たりとも神に気づかれないことはない。」

砕かれるような体験は、できれば避けたいものですが、木っ端微塵にされるような体験を通して、私たちは神を礼拝することを学びます。

詩篇 50:16-23

「感謝のいけにえを献げる者はわたしをあがめる。自分の道を正しくする人にわたしは神の救いを見せる。」(50:23)

詩人は十戒に違反していると告発します。

特に、

「盗んではならない。」

「姦淫してはならない。」

「偽りの証言をしてはならない。」

という戒めに違反していると。

イスラエルの民は、口では十戒を暗誦していながらも、実際は、十戒に違反していました。

神はこの現状を黙認することはないと言います。

口先だけの信仰、形式主義者、神を忘れる道徳的悪者を、神は告発し、裁きを下されると言います。

わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。」(21節)

とあるように、神は神であり、人は人であることを、謙遜に認める必要があります。

広い意味で、これは最後の審判に関する警告のようにも聞こえます。

神は言われます。

神を忘れ去った者へ、最後のチャンスを与えよう。」(22節LB)

最後のチャンスはイエス・キリストです。

詩篇 50:1-15

「感謝のいけにえを神に献げよ。あなたの誓いをいと高き神に果たせ。苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」(50:14,15)

まことのいけにえは、「感謝」と「呼び求める祈り」です。

LBで14節をこう訳しています。

わたしが求めているのは、真心からの感謝」。

メッセージ訳では、

賛美する人生こそ、わたしを敬っている」。

私たちの感謝、賛美は、神に喜ばれ、神に栄光を帰します。

神と取り引きをしようとするのではなく、感謝を捧げていくときに、私たちは神に喜ばれ、神の臨在を体験します。

神が求めているまことのいけにえは、感謝と賛美のいけにえです。

また、15節をLBではこのように訳しています。

苦難のとき、わたしを頼みとしてほしい。そうすれば、わたしは助けの手を差し伸べ、あなたがたはわたしをほめたたえるだろう。

信頼の心から出る「呼び求める祈り」こそが、まことのいけにえということです。

雪化粧の中

3月8日、英児先生と嗣音兄の卒業式に出席&寮の荷物を撤収するため東京基督教大学に向かいました。

雪が降るほど寒い朝、どうかスリップ事故などありませんようにと祈りながらの出発。

予定通りに到着でき車を降りるとチャペル前の芝生にうっすらと雪が。

早咲きの桜と雪化粧、そこにメジロが何羽も忙しなく動いて何とも趣があります。

28年前わたしはTCUを卒業し、その数日後の3月9日、このチャペルで結婚式をあげました。

いまその同じ場所に家族全員がいて、しかも次男と夫の卒業を見守っているという状況はとても不思議で、そしてとても嬉しい感謝いっぱいの時間でした。

聖書の御言葉と祈りによって送り出され、アブラハムのようにどこに遣わされていくかわからないという信仰の訓練の中巣立っていく卒業生たちは28年前のわたし自身の姿。

先の見えない嵐のような日々の中でただただ必死に主にしがみついてきたように感じますが、そうじゃない、主がわたしの全身を離さず抱きしめ続けてくださったから今日の日を迎えられたのだと。

主に信頼するものは決して失望させられることはありません。

 (小山晶子牧師婦人)

詩篇 49:13-20

「人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。」(49:20)

小林和夫先生は、13節から20節の教訓詩をこのようにまとめています。

「富に頼る者はよみに滅び、主に頼る者は主の手に受け入れられる。人の持つ、富も栄誉も一切は死によって限られているのである。悟るべきものを悟ることが人生の本当の意義である。」

考えてみますと、「富」は本当に不平等です。

その人が生まれた国、家、環境によって、すでに、持てる人と持っていない人が存在します。

しかし、死ぬ時は、誰一人その富を持っていくことはできません。

死は、財力や富という社会的価値を無意味化してしまいます。

聖書は言います。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)

神は、その人が、その与えられた富をどのように用いてきたかを問われます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 49:1-12

「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(49:8)

「たましいの贖いの代価」は自分の生命に関わる償いのことです。

聖書は、すべての人は罪を犯したと言います。

聖書の言う罪とは、刑法の話ではなく、神に背を向けることです。

人は、最初の人であるアダムとエバが、神に背を向け、神が食べてはならないと命じられた善悪の木の実を食べてから、ずっと、神に背を向け続けています。

誰一人、神に「罪の代価」を支払うことはできません。

自分で支払うこともできないですし、他の人のために支払うこともできません。

たましいを贖うための代金は、あまりに高く、あきらめるしかないと言います。

だから、神はそのひとり子イエス・キリストをこの世界に与えられました。

イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかり、死なれることによって、「たましいの贖いの代価」を支払ってくださいました。

それは、「たましいの贖いの代価」を支払うために十分でした。

詩篇 48:1-14

「神よ。私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。」(48:9)

「恵み」と訳された単語(へセド)は、神の信実の愛、変わることのない神の愛を意味します。

それで、パッション訳はこのように訳しています。

「主よ、あなたの宮の中であなたを礼拝するとき、私たちは、私たちに対するあなたの優しさと、あなたの尽きることのない愛を何度も何度も思い起こします。」

何度も何度も思い起こすことを、黙想(meditation)と言います。

もちろん、何を思い出すかが大事です。

不安なことばかり思い出していたら、それは思い煩いになってしまいます。

毎週、私たちは、教会で、共に神に礼拝を捧げるとき、神の信実の愛を思い起こすことが大事です。

神の信実の愛は、イエス様の十字架に表されています。

神の信実の愛を何度も何度も思い起こすために、教会があること、主日礼拝の時間があることを、忘れてはいけないと思います。

詩篇 47:1-9

「神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。」(47:8)

「統べ治めておられる」という単語は、「王となられた」と訳すことができます。

イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえり、天に昇り、栄光の神の御座に着座されました。

だから今、

神は国々の王となられた。神は聖なる王座に着いておられる。」(聖書協会共同訳)

イエス様は、国々の王となられたから、この良き知らせ、この福音を、全世界に出て行って知らせるように弟子たちに命じられました。

イエス様の統治を、この世界に知らしめるようにと言われました。

それは、つまり、今も暗闇の支配に振り回されている、罪ゆえに壊れたこの世界に、神の統治を知らせる必要があるということです。

すべての国々の民が、私たちの王、神にほめ歌を歌うように。

詩篇 46:1-11

「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」(46:10)

日々のルーティンから解放され、日々の義務から解放され、神を神として知りなさいという意味があります。

「やめよ」、「静まれ」と訳される原文のヘブル語は、「そのままに!」「ありのままに!」という、人間的な画策や模索をやめて、ただ神である主に委ねることを意味します。

いわゆる、武装放棄を迫る言葉です。

そういう意味で、日々の生活の中で、自分のよろいかぶとを脱いで、静まって、神が神であることを認識する時間を持つことは大切なことです。

わたしこそ神であることを知れ。

とありますように、ここでは「わたし」が強調されています。

つまり、私たちは「自分が、自分が」という自己中心的な自分を手放して、自分の心の王座から降りて、主なる神を認めて、自分の心の王座に、主イエス・キリストを歓迎する必要があるということです。