創世記 29:1-30:43

「彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた。」(29:35)

ヤコブは父をだまし、兄をだまし、憎まれたため、叔父の家に逃走しました。しかし今度は、ヤコブの方が叔父にだまされます。彼は蒔いた種を刈り取ります。(ガラテヤ六・七参照)彼は叔父の次女、ラケルと結婚するために叔父のもとで働きました。しかし、長女のレアと結婚させられてしまいます。ヤコブは結局、両方と結婚します。(注・聖書は一夫多妻制を肯定していません。マタイ一九章・Ⅰテモテ三章参照)ここに悲劇が起こりました。レアは、ヤコブに愛されていないことを知り、努力しました。悲劇ですが、その状況の中で彼女が最終的に主をほめたたえる(ユダの意)ことを選ぶ姿に教えられます。ヤコブの墓に葬られたのはレアです。ユダの子孫からキリストが生まれます。賛美することを選ぶことから奇跡がもたらされます。

うーさみさみ

皆さんは「半日村」というお話をご存知ですか。毎日こうも厳しい寒さが続くと、私はこの「半日村」の『うーさみさみ。これから半日村の話をしようと思うんだが、そう思っただけで身震いが出る。この村はえらく寒い村なんだ。』という始まりを思い出します。山があるせいで日照時間が極端に短く、作物にも健康にも被害が出ているこの村で一人の男の子が立ち上がり、土を運んで山を動かす、というお話です。最初は馬鹿にしていた村人も協力し始めて目的を成し遂げていく様は、当時小学2年生だった私に鮮烈な印象を与えました。信仰生活もこれと似ていると思います。主の御心を掴んで立ち上がり、こつこつと与えられた働きを続けていくならば、やがてそれが周りの信仰者へと伝染し、大きなうねりとなってゆく。自分の背中を見せる、ということでもあると思います。わたしたちはまだクリスチャンでない家族に、友人に、子どもに、どのような背中を見せているでしょうか。と書きながら私自身反省ばかりなのですが、良き模範となるために努力したいと思います! (小山晶子牧師婦人)

創世記 27:1-28:22

「ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。」(28:16)

ヤコブは不安の中、石を枕に横になりました。そこで、天のはしごを見、天使が上り下りしているのを見ました。彼は、天が地に介入している光景を見たのです。彼は自分の未来を描くことができない状態でした。彼は兄のエサウを騙し、命を狙われていました。後ろを振り返るわけにはいきません。先が見えなくても、前に進まなければいけません。そのような不安の中、神はヤコブにご自身を現されました。彼のかたわらに立ち、彼に語られたのです。彼は思わず言いました。

「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」

見捨てられたような地、荒野にいても、天は開いていて、天使たちは上り下りしています。神はかたわらに立って、私たちを導いて下さいます。

今日は主の日。神の家である教会で主に礼拝を捧げましょう!

創世記 25:1-26:35

「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」」(26:22)

イサクは父アブラハムの時代に掘られた井戸を掘り直しました。しかし、掘るたびにその所有権をめぐって争いが起こりました。それで、別の場所に移っては掘りました。そして、ついに争いがない井戸を掘り当てました。そして、彼は言います。

「とうとう主は、広々とした場所を与えてくださった。もう大丈夫だ。これからはここで繁栄していこう。」(LB)

イサクは、争いのない井戸を見つけるまで、あきらめずに井戸を掘り続けました。私たちも、あきらめずに神が備えられた井戸を掘り当てるまで、井戸を掘り続けていこうではないでしょうか。

創世記 24:1-67

「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。」(24:12)

アブラハムは息子のイサクの妻を見つけるために、一人のしもべを遣わします。彼がまずしたことは祈ることでした。彼は神様が取り計らってくださるお方、恵みを施してくださるお方だと知っていました。彼は「聖なる出会い」(Divine Appointment)を体験しました。神様は、私たちの人生にも「聖なる出会い」を用意されています。今日、神様が出会わせたい人がいます。私たちは、自分のことでいっぱいになってしまって気づかないなんてことがないように気を付けたいと思います。このアブラハムのしもべのように祈り、心を整えていこうではないでしょうか。

創世記 21:1-23:20

そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。」(22:14)

神ご自身が、いけにえのための羊を用意されました。神は備え主、私たちの必要を備えてくださるお方です。興味深いことにこの「山」は「モリヤ」(2節)の山です。歴代誌第二にこういう記述があります。

「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現わされた所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」(3:1)

ある学者は、アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山とは、イエスが十字架にかかられたゴルゴダのことだと言います。神はそのひとり子、イエスを十字架にかけられました。それは、イエスを信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。神は必要を備えられる備え主です。

創世記 19:1-20:18

「急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」(19:22)

聖書を書いてある通りに理解するならば、この世界の終わりに突然クリスチャンが引き挙げられ(『携挙』と言います)、それから大患難時代と呼ばれる神の裁きがもたらされます。どうして、大患難時代の前にクリスチャンが『携挙』されなければいけないか、その理由が今日の箇所にあります。ロトたちがソドムとゴモラから出るまで、「わたしは何もできないから。」と御使いは言いました。この世界にキリストの教会がある限り、ソドムとゴモラのような神の裁きが下ることはありません。しかし、クリスチャンが取り去られる時、神の裁きがこの地に下ります。その日は必ず来ます。私たちはその日が近いことを意識して、一人でも多くの人に、イエス・キリストを伝えていく必要があります。

創世記 17:1-18:33

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」」(17:1,2)

神はアブラムが九十九歳になるまで待っていたと言います。どうして、神はそんなに長い間、待っていたのでしょうか。なぜか神は、私たちの望みが絶たれるまで待たれることが多々あります。溺れた人を助けるためには、溺れて直ぐに助けてはいけないと言われます。力が残っているので、その人の力で一緒に溺れてしまう可能性があると言います。その人の力が尽きるまで待たなければなりません。同じように、私たちが万策尽きるとき、神が栄光の計画を始められます。人間の不可能は、神の機会となります。神は私たちの力ではできないことを成し遂げられます。

創世記 14:1-16:16

「アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」(14:20)

収入の十分の一を捧げる什一献金はモーセの十戒(律法)の前から行われていたことでした。つまり、収入の十分の一を捧げるという信仰の行動は、アブラムの信仰が求められているということです。それは、また、アブラムの祝福に生きることです。ですから、旧約聖書の最後の書、マラキ書にもこう記されています。

「十分の一の献げ物をすべて貯蔵庫に運び入れわたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよ‐万軍の主は言われる。必ず、私はあなたがたのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10聖書協会共同訳)

「必ず、祝福を限りなく注ぐ」という約束は、アブラムのように信じて、実践する信仰者に与えられた約束です。聖書で唯一「試してみよ」とチャレンジされている什一献金に挑戦するならば教会会計を潤すだけでなく、アブラハムの祝福を体験します。

信仰によって

新年を迎え、新しい歩みが始まりました。当教会でも来月にはいよいよ入試という学生も多く、神様の最善の導きをと祈らされる日々でもあります。
今朝、ヘブル人への手紙十一章から十二章をデボーションで開き、『信仰』について改めて考えさせられました。特に

『信仰によって私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、』

という御言葉。そして

『信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』

という御言葉。納得できるからでも、理解できるからでもなく、聖書に登場する主の御心に生きた人々は

『信仰によって歩んだ』

というたった一つの共通点でむすばれているのです。信仰が必要な決断をあなたはしていますか。それとも人間的な考えの中だけで進めようとしていますか。それこそが信仰成長のための大きな分かれ道だと思います。私たちクリスチャンがとるべき選択は明確です。今年はそんなチャレンジを受け、主に信頼して一歩踏み出すアドベンチャーな一年になることを期待しています!まずは、わたしから、ですね。    (小山晶子牧師婦人)