マルコ15:33-47

「アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」(15:43)

「思い切って」と訳された言葉を新改訳二〇一七では「勇気を出して」と訳しています。アリマタヤのヨセフは「有力な議員」、エルサレムに住んでいた人なら誰でも知っていた人でした。彼がこの時とった行動は、危険を伴うものでした。反逆罪で十字架につけられた人物に同情を示すということは、彼の仲間というレッテルを貼られることになります。実際、弟子のペテロでさえ、その恐怖のために、「イエス様のことを知らない」と否定してしまったほどです。何が彼をそうさせたのでしょうか。彼は「みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」神の国を待ち望む思いが、勇気を出しての行動につながったと言います。

今日は主の日。神の国を待ち望み、共にまことの神に礼拝を捧げましょう!

マルコ 15:1-32

「それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。」(15:5)

イエス様が沈黙されたのには理由がありました。それは、イザヤ書53章に出てくる、「苦難のしもべ」です。こう記されています。

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)

イエス様は、ご自身をこの「苦難のしもべ」というメシアであると示されたということです。この「苦難のしもべ」が成し遂げることを、イザヤはこう預言しています。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

イエス・キリストの十字架は、私たちの罪のため、私たちに平安をもたらし、いやすためでした。

マルコ14:43-72

「イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。」(48節)

イスカリオテのユダに連れられて、剣や棒を手にした群衆がイエス様を捕らえにやってきました。イエス様がおっしゃられたように、イエス様を捕らえるのにどうして剣や棒が必要だったのでしょうか。ユダもイエス様のことを知っていたはずなのに、どうして、剣や棒を持って来させたのでしょうか?ユダが描いていたメシヤ像はローマの圧政から自分たちを救い出してくれる軍事的指導者だったのだと思います。ユダはイエス様がおとなしく捕まることでなく、今こそ、反乱を起こすことを願っていたのではないでしょうか?しかし、イエス様のメッセージは違っていました。暴力は暴力しか生み出さないことをイエス様知っていました。イエス様は暴力でなく、愛と赦しだけが人を救うことを示されました。

マルコ 14:17-42

「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。」(14:21)

ある英語訳(KNT)は今日の箇所をこう訳しています。

「人の子は彼の旅路を完了する。彼がすると聖書が言うように。」

イエス様のこの世での旅路の完了が、聖餐式に込められていると言うことです。ですからイエス様は杯を取り、感謝をささげて後、弟子たちに与えられ、言われました。

「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(24節)

「多くの人のため」という意味は、「すべてではない」という意味ではありません。限定されているということではありません。イエス様「一人」が、「多くの人のために」ご自分の命を捧げられたという表現ですが、それは十字架の御業は完全であったことを意味します。ですから、聖餐式はイエス・キリストのこの地上における旅路の完成を覚えるものです。

マルコ13:32-14:16

「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」」(14:12)

聖餐式の原型は、過ぎ越しの食事にあります。過ぎ越しの食事は、見て、匂いを嗅いで、味わい、感じるものです。また、過ぎ越しの食事の中で、出エジプトの出来事が語られます。イエス様も出エジプトの話をしたと思います。出エジプトは、エジプトの奴隷生活から、イスラエルの民を神が解放された話です。イエス様は、出エジプトの話をしながら、これからご自身が死なれることを語りました。過ぎ越しの祭りで食べるパンを、ご自身のからだと同一視して、味わうようにさせました。過ぎ越しの祭りで飲む杯を、ご自身の血と同一視して、味わうようにされました。そのようにして、弟子たちは、出エジプトのストーリーと、これから起こる出来事、十字架の死と復活を、リンクすることができるようにしました。

マルコ13:1-31

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(13:31)

第二次世界大戦の時、ナチス・ドイツに服従しなかったために、大学教授の職を失ったスイス人神学者バルトは、スイスに帰国する電車に乗る前、見送りに来た学生にこう言いました。

「釈義、釈義、釈義」(Exegesis)

つまり、時の流れに翻弄されないために、しっかりと聖書を学ぶように学生たちに言いました。終わりの時代に生きる私たちも、目を覚ましているためには、聖書を学ぶ必要があります。というのも、イエス様もこう忠告しています。

「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」(13:22)

惑わされないためには、しっかりと聖書を学ぶ必要があります。

マルコ12:28-44

「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」」(12:32-33)

イエス様の時代のイスラエルは、神殿を中心としたユダヤ社会でした。多くのユダヤ人たちにとって、神殿が、彼らの精神的支柱でした。しかし、イエス様は、ご自身の「神の国運動」を通して、結局のところ、「神を愛し、隣人を愛すること」が優先されると指摘しました。なぜならば、それだけが、私たちの人生の中で、残り続けるものだからです。使徒パウロも、このように言っています。

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13:13新共同訳)

マルコ 12:13-27

「するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。」(12:17)

毎年この時期、確定申告を提出するとホッとします。税金を納めることは国民の義務ですが、今日の箇所の内容は、私たちが考える納税と少し話が違います。敬虔なユダヤ人たちは、自分たちの神殿に税金を納めることに関しては、そんなに問題として捉えなかったと思います。ここで問題になっていることは、自分たちの国を支配しているローマ帝国に対する納税ということです。しかも、税金として支払わなければならない貨幣にも問題がありました。ローマの貨幣には、当時の皇帝の肖像と「神の子」という称号が刻まれていました。ですからイエス様の発言には「神の国」は、まことの神が世界の王となることであり、銀貨に刻まれた者が、神の子ではないということを暗に示しています。

今日は主の日。共にまことの神に礼拝を捧げましょう!

マルコ11:27-12:12

「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」(12:10,11)

今日の箇所は詩篇118篇からの引用です。諸説ありますが、建物を建てる時に、どこにも合わないと捨てられた石が、アーチ構造の頂上の「要石」(キーストーン)として必要とされたものだったという話から来ていると言われています。この石が、アーチの両側からかかる力を受け止めバランスをとり、建造物の構造は保たれます。外すと崩れてしまう重要な石であり、アーチの両端をつなぐ役割を果たす欠かせない石です。イエス様が言いたかったのは、神の御子であるイエス様が来られたのに、「建てる者たち」、- ここでは、祭司長をはじめとするユダヤ人指導者たちのことですが – 彼らが考える建物のどこにも合わないと、彼らはイエス様を拒絶し、捨ててしまったということです。イエス・キリストによって神の救いの計画は完成します。

マルコ 11:1-25

「そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」」(11:17)

「強盗」と訳された言葉は、「過激な国粋主義者」に対して使われていた言葉でした。ですから、イエス様が問題視したことはこういうことです。イスラエルの国は、本来、世界の光として用いられるために選ばれたはずでした。ところが、彼らは国粋主義に陥り、誤った選民思想で、世界を啓蒙するどころか裁いていました。神殿はすべての民のためにイスラエルに神が住まわれることを象徴するものでした。ところが、イスラエルの人以外の人を除外する場所となっていました。イエス様が追い出したその売り買いをしていた場所は、「異邦人の庭」と呼ばれる、ユダヤ人以外の人たちが祈るために設けられた場所でした。イエス様はすべての民が祈れるように、祈りを妨げるものを追い出されるお方です。