1歴代誌 6章

「箱が安置所に納められて後、ダビデが主の宮の歌をつかさどらせるために立てた人々は次のとおりである。彼らはソロモンがエルサレムに主の宮を建てるまでは、会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、おのおのその定めに従って、奉仕を担当した。」(31,32節)

ダビデは主の宮で一日中賛美の歌を歌うように音楽家たちに命じました。「彼らは会見の天幕の臨在の場所の前で音楽をもって仕えていた」(英訳)。主の臨在の場所はいつも、神への賛美に満ちていました。ですから、教会の中にいつも賛美と礼拝の歌の音楽が流れていることは大切なことです。神への賛美の音楽が満ちているならば、神の臨在を想起させる場所となるからです。逆に、どんなに立派な大聖堂があっても、神への賛美の音楽が聞こえなくなってしまうならば、教会としての意味を失ってしまっているのかもしれません。

1歴代誌 5章

「それは、彼らがその戦いのときに、神に呼ばわったからである。彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。」(20節)

イスラエルのルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ハガル人とその連合軍との戦いの時、ひたすら神に信頼し祈ったがゆえに、祈りが聞かれたと聖書は解説します。ジョン・コーソン師はこう言います。

「このことは私を励まします。なぜなら、祈るのに遅すぎることはないということだからです。」

たとえ祈らずにはじめてしまって、戦いの中にいる自分に気づいてしまったとしても、遅すぎることはありません。今、私たちはイエス様の御名を呼び求めることができます。神は私たちの祈りに答えられます。祈るなら希望があります。

「ひたすら神様に信頼していたので、祈りが聞かれ、ハガル人とその連合軍をみごとに打ち破ることができました。」(LB)

今日は主の日。主を共に礼拝しましょう。

1歴代誌 4章

「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(10節)

系図がただ続く中で、まるで通読する人のオアシスのように、このコメントが目にとまります。ヤベツという人に関しては、ほとんど分かっていませんが、彼の祈りが彼の人生を変えたことを聖書はどうしても伝えたかったのだと思います。ヤベツの人生を変えた神は今も生きておられます。今も同じように、私たちの祈りに答えてくださいます。

「愛する天のお父様。どうか私を大いに祝福してください。私の領土を広げてください。御手が私と共にありますように。災いから私を守り、私が苦しむことのないようにしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」

1歴代誌 3章

「ダビデはそこで七年六か月治め、エルサレムで三十三年治めた。」(4節)

ダビデがしたことに関しては、後の章で詳しく出てはきますが、この章では、この一行にまとめられています。これは、私たちに対する警告にも受け取れます。私たちのこの世での歩みは一時的で、束の間にすぎないということです。「人生を導く五つの目的」(PDL)の中にこんなことが書いてあります。

「神の目から見た信仰の偉大なる英雄とは、この人生において繁栄を誇り、成功を収め、権力の座に就いた人のことではなく、この人生を一時的なものと受けとめ、永遠において神が約束された報いを受け取ることを期待して、神に忠実に仕えた人のことなのです。」

「この地上における人生が一時的なものにすぎないという事実を受け止めて、今という時を、神の栄光のために生きることができますように。」

1歴代誌 2章

「彼の嫁タマルは彼にペレツとゼラフとを産んだ。」(4節)

聖書の中で、タマルの話はどちらかというと隠しておきたい内容だと思います。創世記38章にでてくるこの話は、ダビデ王の系図に傷をつけるような話に見えます。しかし、神の目は私たちとは違います。神はタマルの名前を抹殺するどころか、タマルをあわれみ、タマルの子孫を王家の系図に入れられました。神の目にはタマルも大事な存在だと言うのです。系図の興味深いところは、それぞれの名前の中に、数々のドラマがあるということだと思います。聖書に名前が記されていると言うことは、神は私たち一人一人に関心をもっておられ、私たち一人一人を名前でご存知だということでもあると思います。イエス様もある時こんなことを言いました。

「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」(ヨハネ10:3)

「主よ、あなたが私の名前も覚えておられることを感謝します。」

1歴代誌 1章

「アダム、セツ、エノシュ、」(1節)

歴代誌第一の一章から九章までは、系図が記されています。この系図の驚く所は、人間の祖先であるアダムからはじまることです。私たち人間のルーツは、結局、アダムにあります。すべてはアダムからはじまりました。神はアダムを造り、アダムを愛しました。しかしアダムは神を軽視し、神に背を向けてしまいました。そしてその罪が代々と受け継がれていくのです。ここに並べられた人名を見るときに、神があきらめずに関わりつづけようとされていることに驚きを覚えます。こんなに沢山の世代の間、神は忍耐し、愛を与えつづけたのです。この系図は、ダビデの時代で終わりますが、今も続いています。神の忍耐は尽きることがありません。尽きるどころか、罪を赦すためにキリストを遣わしたところに、私たちは驚くばかりの愛を感じます。「神様、あなたの愛と忍耐を感謝します。」

エペソ 6章

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(18節)

パウロはこの世界には霊的な戦いがあることを述べ、すべての霊的な武具を身につけるように言います。そして、祈ることを強調します。私たちの祈りの姿勢が、私たちの信仰を表します。ここで命じられている祈りは、自己中心的な祈りとは違います。リビングバイブルではこう訳しています。

「どんなことでも、聖霊の考えにそって神にひたすら願い求めなさい。」

私たちは、神の御国(主権)がこの地上に現されることを祈り求めます。神のみこころが天の御国で行なわれているように、この地上でも行なわれることを祈り求めます。神中心の祈りです。自分のためだけではなく、「すべての聖徒のために」祈る祈りです。この年、「すべての聖徒のために」祈りましょう。

エペソ 5章

「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(19節)

賛美の歌を心から歌うことは、どうでもいいことではなく、聖書が命じていることです。現代におけるサタンの巧妙な罠は、「陶酔」という言葉を利用して、心から聖霊に満たされて主に歌うことを妨げようとすることです。知的に歌うことも大切ですが、「霊の歌」という表現もあるように、我を忘れて聖霊に導かれて歌うことも大事なことです。実際、賛美をしなくなると、私たちの口は不平と不満ばかりが出てきます。昔も今も変わりません。賛美を妨げる人々の間でなされていたのは下品なものでした。ですから、パウロは言います。「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」(4節)この年、賛美と感謝いつも満たされますように。

エペソ 4章

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(32節)

「親切」は聖書的には大切な美徳の一つです。なぜならば、「親切」は神の性質の一つだからです。イエス様はこのように表現しました。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:36)

聖霊なる神様を心に宿しているのであるのならば、神のご性質の影響を受けて、「親切」と「赦し」に生きようとするものだと聖書は言います。一年のはじまりにあたって、イエス・キリストの十字架の意味を今一度噛み締め、「お互いに親切にする」、「互いに赦し合う」ことの大切さを心に留めたいと思います。
今日は、今年最初の主の日。心からの賛美と礼拝を主に捧げることができますように。

※ 本日の第三礼拝(18時)はお休みです。

エペソ書 3章

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(20、21節)

聖霊なる神様の働きは、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる働きです。神様に不可能なことはありません。ですから、大胆に恵みの御座に出てくるように、神様はおっしゃられます。神様の働きは、私たちの乏しい想像力を超えています。私たちの願いに限定されることはありません。しかし、同時に、その力は、私たちの祈りを通して解き放たれます。「どうか」という祈りのことばでこの箇所が始まっていることを私たちは忘れるべきではありません。祈りは無限の可能性を開くという聖書の主張を、この年、体験することができますように。