ローマ 6章

「その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(22,23節)

「永遠のいのち」と聞くと、天国を思い浮かべる方が多いと思います。しかし、「来るべき時代のいのち」(the life of the age to come)という意味があります。「今の時代」と「来るべき時代」があります。ガラテヤ1:4にあるように、「今の時代」は、悪の世界が存在しています。しかし、「来るべき時代」には、神の完全な支配がもたらされます。イエス様が達成したことは、この「今の時代」の真ん中に「来るべき時代」を持ってきたことです。クリスチャンは、まさに、「今の時代」を「来るべき時代」の光の中で生きることです。そして「来るべき時代」は、イエス・キリストの中にあります。

ローマ 5章

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(6節)

LBでは、こう訳しています。

「私たちが逃れる道もなく、行き詰まっていた時、キリストはおいでになり、何のとりえもない、私たち罪人のために死んでくださいました。」

イエス・キリストは、私たちが何かしたからではなく、私たちを一方的に愛されるがゆえに、私たちのために死なれました。それでパウロは、さらにこのように続けます。

「キリストは、罪人のために血まで流してくださったのですから、私たちが無罪とされた今は、もっとすばらしいことをしてくださるに違いありません。今やキリストは、神の怒りから、私たちを完全に救い出してくださるのです。」(9節LB)

「もっとすばらしいことをしてくださる」と信じて生きていくことができますように。

ローマ 4章

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(25節)

イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれました。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」(3:25)

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(8:3)

イエス・キリストはまた、私たちが義と認められるためによみがえられました。イエス・キリストを信じる者が、神の民となるために死からよみがえられました。

ローマ 3章

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(23,24節)

23節を原文は、次のように訳すことができます。

「すべての人は、罪を犯したので、神の栄光に欠けた。」

神は人を神の栄光を反映する存在、「神のかたち」(神のイメージ)として造られました。しかし、罪を犯したことにより、神の栄光を反映することができなくなってしまいました。それで、神は「贖い」を用意されました。イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放されるために、「贖い」が必要でした。同じように、人は罪と死の奴隷生活から解放されるためには「贖い」が必要でした。それが、イエス・キリストの十字架の死が意味したことです。人は、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに自由にされ、イエス・キリストの中で、神の栄光を現す神の民とされます。

ローマ 1章

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(16節)

「福音」とは、よきアドバイスではなく、よき知らせです。「こうしたらいいですよ」というアドバイスではなく、何かが起こったという知らせです。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、何かが起こったことを知らせることです。それは、やがて、何かが起こることを知らせるものでもあります。

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」(イザヤ52:7)

というイザヤの預言が成就したということです。これは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人に、救いをもたらす知らせです。もうすぐ、キリストが再び来られ、神の国が完成する日が近いことを確信するからです。

ヨシュア 24章

「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15節)

人は自分が選んだ神に仕えます。「神」という言葉で呼んでいなくても、自分が選んだ神を主人として仕えます。快楽を自分の神とする人は、人生の基準が、自分に快楽をもたらすものかどうかで判断します。自分の行動基準も、快楽をもたらすものが中心になります。そして自分の快楽を得るために働きます。人は結局、自分が選んだ神を主人として仕えているのです。もっとも、人は誰を神として仕えるかを選ぶことができます。イエス・キリストを自分の神として選び、仕えることもできます。ただし、私たちは自分で決断しなければなりません。
今日は主の日。主を選ぶことができますように。

ヨシュア 23章

「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」(11節)

ヨシュアの遺言メッセージが記録されています。ヨシュアは、

「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。」

と言いました。つまり、神を愛することは、意識的にすることだと言うのです。聖書が命じる「愛」は、私たちの気分とは関係ありません。単なる感情とは違います。「信仰」という「決断」を伴うものです。人は、気をつけなければ、愛し続けることは難しいということだと思います。私たちが愛し続けるために気をつけるべきことの一つは、コミュニケーションです。コミュニケーションを気をつけてとるようにしていなければ、愛し続けることは難しいと思います。神とのコミュニケーションは、祈りと聖書を読むことです。気をつけて、祈り、聖書を読まなければ、神を愛し続けることはできなくなります。「十分に気をつけて」、毎日聖書を読み、祈りましょう。

ヨシュア 22章

「祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。」(30節)

ヨシュアから励ましの言葉と祝福を受けて、自分たちの家族の待つヨルダン川の東側の相続地にルベン、ガド、マナセの半部族は帰りました。そして、そこに一つの記念の祭壇を築いたことが、誤解を生み、問題になります。同じ信仰に生きる者の間でも、良い意図をもってなしたことが、誤解を招くことは、いつの時代でも起こることです。ですから箴言にはこんな箇所もあります。

「よく聞きもしないで早合点すると、赤恥をかきます。」(18:13LB)

「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」(18:17)

私たちは何事も、表面だけ、また、他人から聞いたことだけで、判断しないように気をつける必要があります。

ヨシュア 21章

「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」(45節)

神はイスラエルの人々との約束を守られました。約束どおり、彼らに約束の地を与え、勝利を与え、安住を与えられました。もちろん、イスラエルの人々もそのために様々な努力や犠牲を払いました。しかし、自分たちの努力によって成し遂げたと記録されていないところに意味があると思います。服部師はこう言っています。

「神の約束のゆえに、苦難や試練を経験したり、そのような苦難や試練の歴史を聞いてきた者にとっては、いつの時代にも、その約束の成就を見ることは感激以外の何ものでもない!」

「すべての良いことは」とあるように、神は真実なお方であり、悪いことではなく、良いことを実現してくださるお方です。

「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

ヨシュア 20章

「イスラエル人に告げて言え。わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、のがれの町をあなたがたのために定め、あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。」(2,3節)

神様は、計画的でなく(事故など)、誤って人を殺してしまった場合、復讐を避けて逃げ込むことができる逃れの町を作るように命じました。つまり人間というのは、どんなに気をつけていても、過ちを犯す可能性がある存在であると認められているのです。失敗は終わりではありません。誰もがその可能性をもっています。ですから、過ちを犯した時、私たちはキリストの内に逃れることができます。キリストこそ私たちの逃れの町です。キリストは失敗をしたペテロのところに来て、もう一度チャンスを与えました。キリストは失敗したからと言って、私たちを切り捨てることはありません。