ローマ 16章

「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。」(3-5節)

プリスカとアクラは、とても興味深い夫婦です。彼らは新約聖書の六箇所で言及されています。彼らはローマとエペソに、家を持っていました。彼らは天幕づくりの仕事をしていて、パウロは彼らと一緒に仕事をしたと言います。彼らはまた、アポロがまだ駆け出しの頃、助けました。彼らはどこにいても、パウロの働きを支え続けました。教会はいつの時代も、彼らのような神によって立てられた、誠実な信徒たちによって支えられてきました。

「主よ、誠実にミニストリーを支え続けてくださっている、すべての信徒の方々に、祝福がありますように。」

ローマ 15章

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」(4,5節)

使徒パウロは、旧約聖書の目的の一つは、私たちに「聖書の与える忍耐と励まし」によって希望を持たせるためだと言います。私たちは旧約聖書を学ぶ時、神様がどれほど忍耐深いお方かを学びます。何度も裏切り続けるイスラエルの民を、神は愛し続け、関わり続けられます。ですから、詩人もこう歌っています。

「主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる。」(詩篇86:15共)

もちろん、今もイスラエルの民を神は見捨てられていません。神の忍耐は私たちに慰めと励ましを与えます。そして、希望をもたらしてくださいます。

ローマ 14章

「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」(14節)

私たちは皆、個人的な確信やこだわりがあります。こうすべきだとか、ああすべきでないというものがあります。たとえば、ある人は菜食主義で、ある人は何でも食べます。個人的な確信やこだわりが問題なのではなく、それを他者にも押し付け、裁きあうならば問題となります。聖書は「この人は、ああすべきだ。」「この人はこうすべきではない。」と互いに裁き合ってはいけないと言います。なぜならば、私たちの主人は生ける神、キリストであり、裁く権利は私たちではなく、キリストにあるからです。「さばいていいのは魚だけ」と言われます。ビリー・グラハム先生はこう言います。

「罪を示すのは聖霊の仕事。裁くのは神の仕事。私の仕事は愛すること。」

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日のSSCの第二礼拝はギデオン・サンデー。ギデオン聖書協会の方が来られます。

ローマ 13章

「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(9,10節)

聖書の言う愛は、「欲望」という自己中心の愛とは違います。相手の必要を認めて与えていく、満たしていくのが、聖書の言う愛です。ですから隣人に対して害を与えるようなものは、聖書の言う愛ではありません。何でもしてあげることが愛とは限りません。相手のことを思い、行動することが愛であり、これが旧約聖書が実は求めていたことでした。スティーブン・カーティス・チャップマンは、このように歌っています。

「愛はいつも善をもって悪に打ち勝つ。」(Love will always overcome evil with good.)

ローマ 12章

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(2節)

「心の一新」とは、私たちの考え方、思考を変えられることです。私たちは神のみことばを日々心に蓄えて、内側の考え方そのものを聖書的な思考に変えられる必要があります。そうするならば、神のみこころが良いものであり、神に受け入れられるものであり、完全であるということを証明することができます。ライト師はこう言います。

「私たちは、霊的であるために造られていながら、内省にふけっている。喜びのために造られていながら、快楽に浸っている。義のために造られていながら、復讐を叫んでいる。良い関係を築くために造られていながら、自分のやり方を主張している。美のために造られていながら、感傷で満足している。」

私たちは考え方を刷新される必要があります。

ローマ 11章

「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。」(2節)

エリヤに言及しているために、パウロの言及の背景にある別の聖書箇所を見落としてしまいます。それは、預言者サムエルがイスラエルの民が王を求めたことに対してとりなしの祈りをした後の言葉です。

「サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。…まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」(1サムエル12:20-:23)

パウロの言葉の背景に、このサムエルの言及を見ることができます。

神は「ご自分の民を捨て去らない。」

ローマ 10章

「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」(8節)

この箇所で、パウロは申命記30:14を解説しています。

あなたの近くにある「みことば」とは、「私たちの宣べ伝えている信仰のことばのこと」です。

「あなたの口」にあるという意味は、「あなたの口でイエスを主と告白」するということです。

「あなたの心にある」とは、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」ということです。

つまり、旧約聖書の律法で求められていた内容は、私たちの宣べ伝えている信仰のことばと同質であったと言うのです。

ですから、申命記30章の本当の意味は律法を守ることによってではなく、キリスト者の説教によって明らかにされます。

ローマ 9章

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(21節)

9章から11章まで、

「神のみことばが無効になったわけではありません。」(6節)

というテーマで、イスラエルについて言及されています。ローマ書の中心はこのセクションにあると多くの学者は言います。パウロは、神のイスラエルに対する扱いに関して、エレミヤ書一八章に出てくる陶器師の比喩を用います。陶器師の力は破壊力ではなく、再生力です。器がどうであれ、陶器師は造り直す力があります。エレミヤの預言は、イスラエルへの裁きの預言ですが、同時に、悔い改めるなら災いを思い直すと言います。裁きが宣告されている中でも、神の民イスラエルに対する神の愛が継続していると言うのです。神のみことばが無効になることはありません。

ローマ 8章

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(11節)

教会は聖霊が住んでおられることに意味があります。ライト教授はこのように言います。

「聖霊と教会の務め。この二つは共に手を携えていく。別々に語ることはできない。いまより少し前の世代のクリスチャンは、新しい霊的体験に興奮した。そこから連想されるかも知れないことだが、神は、『ディズニーランドの一日』のような霊的楽しみを与えるために聖霊を与えているわけではない。…聖霊が与えられる目的は、イエスに従う者たちが次のようなニュースを携えて、全世界に出て行くためである。すなわち、イエスは主であり、悪の力に打ち勝ち、新しい世界が開かれる。…教会の務めも聖霊なしには果たされない。…神の霊なしに教会は教会ではあり得ない。」

ローマ 7章

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(25節)

「この私」をパウロと考えて、この7章の内容がパウロが救われる前の話か、それとも後の話かという議論がなされます。しかし、シュテンダールという学者は、これはパウロ自身のことではないと言います。「この私」を、旧約聖書で扱われているイスラエルの民族のことだと考えますと、ローマ書は理解しやすくなります。イスラエルの民の問題は、確かに罪だったからです。ですから、旧約聖書の結論は24節になります。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

そして、この問題の解決が25節。

「神に感謝!私たちの主のキリスト・イエスを通して!」(直訳)

今日は主の日。主イエス・キリストに感謝と賛美と礼拝を共に捧げましょう!