マタイ 9章

「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」(9:36)

イエス様を動かしていたのはあわれみでした。

あわれみと訳された単語は、「内臓」で、人間の深い感情を意味しました。

はらわたが引きちぎられるような、深い同情の心を意味します。

日本のリバイバルを祈り求める人もイエス様と同じあわれみに動かされています。

私たちもイエス様と同じように見ているでしょうか。

まるで羊飼いのいない羊のように、彼らは混乱し、目的もなく過ごしていた。」(MSG)

イエス様の思いを自分の思いとし、日本のリバイバルのために祈りましょう。

マタイ 8章

「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。」(8:16)

イエス様のこの地上での働きの一つは、悪霊どもを追い出し、病気の人々を癒すことでした。

それは17節にあるように、イザヤ書に預言されていたことの成就でもありました。

イエス・キリストは昨日も、今日も、とこしえに変わることがありません。

今も、悪霊どもを追い出し、病気の人々を癒されます。

「ことばをもって」とあるように、イエス様のことばに力があります。

聖書はイエス様のことばです。

ですから、聖書のみことばによって祈ることが大切です。

マタイ 7章

「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」(7:2)

人を指差す時、3本の指が自分の方を向いているように、自分も同じように裁かれることを意識する必要があります。

メッセージ訳では「批判的な精神はブーメランになる」と訳しています。

自分のことを棚上げにして他者を批判することは聖書的ではありません。

私たちは裁き合うためではなく、愛し合うため、励まし合うために存在しています。

聖書は警告します。

「兄弟たち。さばかれることがないように、互いに文句を言い合うのはやめなさい。見なさい。さばきを行う方が戸口のところに立っておられます。」(ヤコブ5:9)

マタイ 6章

「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(6:34)

イエス様は無責任に「明日のことまで心配しなくてよい」と言われた訳ではありません。

メッセージ訳ではこう訳しています。

「あなたの注目の全てを神が今なされていることに向けなさい。そして、明日、起こるか起こらないか分からないことに取り乱してはいけません。神はどんな大変なことでも、それがやってきた時、あなたが取り組むことができるように助けられます。」

イエス様が私たちの注目の全てを「神が今なされていること」に向けるようにと言われたのは、神が今生きておられ、今働かれているからです。

神は良い神であり、神が今なされていることは良いことです。

神が今なされている良いことに目を向けることができますように。

今日は主の日。共に主を見上げ礼拝を捧げましょう。

マタイ 5章

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(5:9)

「平和」とは何もしなくても存在するものではないようです。

イエス様は「平和をつくる者」と、平和をつくり出していく必要があることを伝えています。

残念ながら、サタンは人々に憎しみと怒りを植えてこの世を地獄にしようとしています。

イエス様は十字架によって愛と赦しを植えて、この世を天国にしようとしています。

イエス様の十字架こそ、憎しみの鎖を打ち砕く、神の勝利、平和をつくる希望です。

使徒パウロもこのように言っています。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)

私たちは憎しみの連鎖に火をくべるのではなく、愛と赦しと和解のメッセージをこの地にもたらしていかなければなりません。

イエス様の十字架の御業を理解することなく、平和をつくる者となることはできません。

マタイ 4章

「そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」」(4:10)

イエス様は公生涯と呼ばれる働きをされる前に、悪魔の試みを受けられました。

悪魔の誘惑は、イエス様が何でもできる神の御子であるということを前提に読まなければそもそもどうして試みなのかが理解できないと思います。

イエス様は石をパンに変えることはできたはずです。

五つのパンと二匹の魚で五千人を養うことができたのですから。

奇跡的な守りを受けることもできたはずです。

嵐を静めることもできたのですから。

また、悪魔にひれ伏して、この世のすべての王国を手っ取り早く手にすることもできたはずです。

しかし、それでは、神の御国がこの地に現されることはありませんでした。

神のみこころが天で行われているように、この地に行なわれること、それ以上に重要なことはないことをイエス様は示されました。

マタイ 3章

「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」」(3:16,17)

聖書の神は「三位一体」(Trinity)なる神です。

唯一の神ですが、父、子、聖霊の三つの位格があります。

「三位一体」という単語は聖書に出てきませんが、神が「三位一体」であるということが聖書を読むと分かります。

イエス様の水のバプテスマの場面に私たちは「三位一体」なる神を見ます。

子なる神、イエス様が水から上がられた時、聖霊なる神が鳩のようにイエス様の上に降って来られました。

そして、父なる神が天から声をかけられました。

ここに三位格があります。

永遠の神は、三位一体として存在されています。

マタイ 2章

「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」(2:23)

イエス様は、6節にあるように、ミカ書5:2で預言されていたようにベツレヘムで生まれる必要がありました。

その後、15節にあるように、ホセア書11:1で預言されているようにエジプトで過ごす必要がありました。

当時、エジプトのアレキサンドリアには大勢のユダヤ人が住んでいたことが知られています。

そしてそれから、23節にあるように、ナザレという町に住む必要がありました。

「ナザレ人」がどの箇所からの預言かは議論があります。

民数記6章、士師記13:5,7の「ナジル人」からという説もあれば、イザヤ11:1のメシア預言に出てくる「若枝」(ネツェル)からという説もあります。

大事な点は、すべては神の御手の中にあり、やがてパズルのピースがはまり、神のご計画の素晴らしさを賛美するようになるということです。

マタイ 1章

「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(1:21)

「イエス」という名はモーセの後継者「ヨシュア」のギリシア語表記で、当時の一般的な名でした。

ですから、ヨシュアがイスラエルの民を約束の地に導いたように、民をその罪からお救いになるという意味がありました。

イエス様の系図にはアブラハム、ダビデだけでなく、「バビロン捕囚」(17節)のことが言及されます。

「バビロン捕囚」はイスラエルの民の罪の結果であったということが旧約聖書が伝えているところです。

イエス様の時代のユダヤ人たちはローマ帝国の支配下にありました。

そういう意味で、捕囚状態は継続していました。

すなわちイスラエルの民が必要としていたのは罪からの救いだったのです。

福音書はイエスが罪から救うという知らせです。

使徒 28章

「少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(28:31)

使徒パウロは囚人としてローマに行きますが、そこで自費で借りた家に住むこととなります。

囚人という身分でしたが、訪ねて来る人たちを歓迎し、神の御国を宣べ伝え、イエス・キリストについて説明しました。

メッセージ訳ではこのように閉じられます。

彼の扉はいつも開いていた。

「彼の扉」の「彼」は主なる神のことと考えられます。

オンヌリ教会のハ先生はこのように言います。

「『使徒の働き』の最後はピリオドではない。『使徒の働き』の最後は終わりがない。(中略)神のことばを学んだ人々が出て行き、教会を建て、教え、そして教会は生まれて行った。教会が教会を生むことは二千年の間、引き継がれたことである。これが『使徒の働き二九章』である。」

「使徒の働き二九章」を書く教会、新しい教会を生む教会となりますように。