Ⅰコリント 8章

「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(1,2節)

 ある牧師は、この箇所をこうまとめました。「自分は何でも知っているという人は、知らないということを知らない。」情報過多に生きる私たちの問題は、すぐに自分が何でも知っているかのように傲慢になってしまうことです。自分の意見、自分の判断がいつも正しいと思ってしまうのです。しかし、大事なのは愛だと聖書は言います。聖書は愛の優先性を教えています。その良い例が、当時の宗教学者とイエス様のコントラストです。当時の宗教指導者たちは、知識を優先させました。そして、知識をもっていなかった当時の人々を蔑みました。しかしイエス様は、(どんな人よりも知識がありましたが)愛を優先されました。

「主よ、あなたの愛で私を満たしてください。」

Ⅰコリント 7章

「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。」(32節)

 イエス様は言われました。「・・・御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない・・・」(マタイ13:22共)世の思い煩いは、私たちの人生に実らない人生をもたらせます。それで聖書は何度も、「思い煩わないように」と言います。思い煩いが私たちの目をキリストから離させるからです。いろいろな思い煩いがありますが、31節にはこうあります。「この世の魅力的なものに接する機会の多い者たちは、その機会を正しく利用し、おぼれることがないようにしなさい。現在あるがままの世界は、やがて過ぎ去るからです。」(LB)キリストから目を離させるものに魅力を感じていないでしょうか?

「だから、スピードを落とさせたり、うしろへ引き戻そうとする力に目を光らせなさい。特に、足にうるさくまとわりついて、つまずかせようとする罪をふり捨てなさい。そして、神様の用意された特別のコースを忍耐して走り抜こうではありませんか。」(ヘブル12:1LB)

Ⅰコリント 6章

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(20節)

聖書は禁欲生活を勧めているのではなく、正しく用いることを勧めています。「聖霊の宮」として、私たちの体を通して人々が神を見ることができるような生活を心がけなさいと言います。それは、つまり、私たちの体を管理するということです。やがて天国に行くまでのものだからと、自分の体をいい加減に扱うことは、聖書が教えている内容とは反します。適度な食事、適度な運動、適度な休養も、聖書が私たちに求めている内容です。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」と訴えます。イエス・キリストの十字架の死は、私たちのこの肉体のためでもあったということを心に留める必要があります。

「主よ、体調を管理するということは、たやすいことではありません。あなたの助けを与えてください。」

Ⅰコリント 5章

「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。」(9、10節)

 

 世捨て人というのは、聖書的ではありません。私たちの役割は、この世に生き、様々な人たちとの関わりの中で、イエス・キリストの福音を伝えることです。人は心が変えられる必要があります。私たちを内側から変えることができる方、イエス・キリストを紹介することによって、この世界は変わることができます。変えられたクリスチャンたちが、この世界を変えることができます。私たちはこの世界から出て行くことではなく、この世界に出て行くことを勧められています。

「主よ。すべての教会、すべてのクリスチャンたちを聖め、キリストの福音に生きれるようにしてください。」

Ⅰコリント 4章

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(5節)

パウロは、あくまで主が裁かれるのだから、私たちが互いに結論を下すべきではないと主張します。彼自身、自分でも裁かないとまで言います。LBでは、このように訳しています。「ですから、主がまだお帰りにならないうちから、ある人が良い家来かどうか、せっかちに結論を下すことがないように注意しなさい。主が来られる時、すべては明るみに出されます。一人一人の心の奥底までが見通され、ありのままの姿が、だれの目にもはっきり見えるようになります。その時、私たちが、なぜ主の仕事をしてきたのか、だれにもわかるようになります。そして、一人一人が、ふさわしい賞賛を神様から受けるのです。」

Ⅰコリント 3章

「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(17節)

パウロははっきりと「神の神殿」は教会のことだと言います。キリスト教信仰は、神との個人的な関係という部分がありますが、「あなたがた」という共同体の部分があります。個人主義は教会ではありません。私たちは互いを必要としています。祈り合う共同体を必要としています。パウロはそしてここで、祈り合う共同体を否定したり、攻撃したりすることに対して警告を発しています。パウロの時代に、ヘブル書10章25節を見ますと、教会に集まることを否定していた人たちがいたことが分かります。パウロは明らかに、教会を建て上げることを否定する人たちを意識して、この警告を発しているのだと思われます。教会を建て上げることを邪魔する人は、神が介入されます。私たちは、教会を建て上げることを大切にしましょう。

Ⅰコリント 2章

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(14節)

  キリスト教会のあり方は、一般企業とは違います。収益(利益)をあげるためではなく、捧げるために存在するということ自体、愚かに感じます。しかし、キリストを信じている者は、聖霊が心に住んでいるがゆえに、愚かに見えても、他者のために祈り、捧げていきます。神を信じない人は、神に賛美、祈り、礼拝を捧げることは、愚かに見えるものだと思います。しかし、まことの神を知った者は、聖霊なる神様のゆえに、それがどんなに大切なことか分かるものです。ですから、この世の常識で教会を運営しようとするならばおかしくなってしまいます。教会は聖霊なる神様を認め、聖霊なる神様の導きに生きる必要があります。

Ⅰコリント 1章

「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」(10節)

パウロは、イエス様の権威を用いてコリントの教会に訴えました。あなたがたはうまくやっていかなければならないと。様々な階層、様々な背景の人々が集まっていたコリントの教会は、明らかに分裂していました。人間的な好き嫌いもあったのかもしれません。しかし、パウロは、一致を保つ努力を求めました。多様化された社会において一致を保つためには、互いの違いを認める必要があります。自分の価値観を押し付けあうならば、一致することはできません。パウロは十字架を指し示し、「十字架型」の生き方を私たちに求めます。自分の権利を主張し合うのではなく、イエス様のように、仕えることを選ぶ生き方です。イエス様の十字架の姿勢と自分の生きる姿勢は、どれ程かけ離れていますか?