イザヤ 26章

 「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこし えの岩だから。」(4節)

信仰とは一時のものではなく、人生を通して持ち続ける、継続的なものです。ですからLBでは、このように訳しています。

「どんな時でも、神様である主に信頼しなさい。いつまでも尽きない力がいただけるのは、主からだけです。」

前節にはこのように記されています。

 「志の堅固なものを、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

「全き平安」と訳された言葉は、 「シャローム、シャローム」です。最上級の平安という意味です。「ヤハ」は「ヤハウェ」、神様の名前で す。どんな時でも神様を信頼して生きていくならば、尽きない力、最上級の平安の中に生きることができるという約束です。このことを使徒パ ウロは次のように表現しています。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)

イザヤ 24章

「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」(23節)

 イザヤは、やがてヤハウェなる神ご自身が支配するために来られると預言しました。

「シオンの山、エルサレムで王となり」

というのは、ダビデの王国の完成を意味します。神ご自身が王となり、その民を牧されると。イエス・キリストは、エルサレムで十字架にかかられました。そしてその十字架の上には、「ユダヤ人の王」と刻まれました。誰が想像したでしょうか。神は、そのひとり子を与えることによって王となられました。子なる神、イエス・キリストは、すべての人の罪のために死ぬことによって王となられました。LBでは23節をこのように訳しています。

「ついに天の軍勢の主はシオンの御座にのぼり、イスラエルの長老たちの見ている前で、エルサレムを中心に世を治めます。その栄光は、太陽の輝きも月のうるわしさも、色あせてしまうほどです。」

イザヤ 23章

「万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」(9節)

 ツロが滅んだ理由を聖書はこう言っています。

「ほかでもない天の軍勢の主が、その思い上がりをたたきのめし、人間の偉大さなど物の数ではないことを示そうと、このようにしたのです。」(LB)

ヤコブ4:6にも、こうあります。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

傲慢(高ぶり)は、主が忌み嫌うものだと聖書は私たちに伝えます。箴言の16:18にも、こうあります。

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」

LBでは、こう訳しています。

「プライドが高すぎると身を滅ぼし、なまいきなことばかりしていると失敗します。」

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:6)

今日は主の日。へりくだり主に礼拝を捧げましょう!

イザヤ 22章

 「さあ、宮廷をつ かさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあ なたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。」(15、16節)

 執事シェブナとは、ヒゼキヤ王の時代に宮廷を管理していた人物です。神様の怒りに対して悔い改めることを せず、宮廷の管理者と言う立場にありながらただ自分の楽しみのために日々を過ごしていた様子が記されています。そして、シェブナが危機感 を持つこともなく自分のためにエルサレムの墓群のなかでも一等地に自らの墓を用意したことに対して、神様は厳しく語っています。興味深い ことにごく最近、シェブナのものと思われる墓が発見されました。私たちの心の中にも、時々シェブナが存在します。他者に対して心を向ける ことは大切です。

イザヤ 21章

 「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」(11、12節)

 エドムの人々は、イザヤのところに、アッシリヤの脅威はいつまでかと尋ねにやってきました。イザヤは、エドムの人々に、本当に知りたければ、心からもう一度尋ねに来るように言いました。神様は、今も同じようにされることがあります。鎮痛剤程度に神を求めてきても、神様は、その人が心から求めに来るまで答えを待たれることがあります。聖書は言います。

「神様のもとに来ようとする人はだれでも、神様の存在と、熱心に神様を求めれば必ず報いられることとを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

「主よ、あなたを心から求めます。あなたが必要です。」

イザヤ 20章

「人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。」(5節)

 何に頼り、何に期待し、何に希望を抱くかということは、私たちの人生にはとても大きな問題です。もし、その頼みとしたものが崩れ去ってしまうなら、私たちは混乱してしまうからです。ですから、私たちは決して揺るがない、確かな方、イエス・キリストを頼みとし、イエス・キリストに希望をもつということが大切になります。聖歌の中にこういうものがあります。

「イエスこそ岩なれ 堅固なる岩なれ 他は砂地なり」(236番)

どんなにこの世界が移り変わっても、神のみことばは変わることはありません。イエス様は堅固なる岩のような方です。

「主よ、イエス様だけを頼みとし、イエス様にある希望に生きていくことができますように。」

 

イザヤ 19章

「主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」(22節)
 
 LBで今日の箇所をこのように訳しています。「神様は打ちのめしたあとで、もう一度建て直すのです。」この箇所をよくあらわしているのが次の小坂忠先生の「グッドバイブレーション」の本の中の一節です。

「私が小学生を過ごした埼玉県志木の時代、家の周りには麦畑が広がっていた。冬の寒い季節にはよく麦踏みを手伝った覚えがある。(中略)踏まれて強くなる麦。今の子育てに必要な教訓ではないだろうか。麦踏みをしないと麦はひょろひょろと丈ばかりが伸びて実を結ぶと折れてしまう。麦踏みをした麦は、背は低いけれど茎が太くて丈夫に育つのだ。」

聖書に、「主はその愛する者を懲らしめ」(ヘブル12:6)という箇所があることを心に留めたいと思います。

イザヤ 17章

「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(7、8節)

 本当に大変な時、私たちはどこに向かっているでしょうか。自分の手で造ったものは、結局は、自分の能力を超えることはありません。私たちは、自分が造ったものではなくて、自分を造った方に目を向けるべきです。無から有を生じさせることができる、創造主を見上げるべきです。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27口語訳)

私たちの手で造ってしまうものは、物だけでなく、哲学や思想もあると思います。自分が作った考えも、自分を超えることはありません。私たちは、自分を造った方、そのみことばである聖書に目を向けるべきです。

「創造主なる主よ、私は、あなたに目を向けます。自分の考えではなく、聖書のことばに目を向けます。」

イザヤ 16章

「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」(5節)

 この世界の終りに、イエス・キリストは恵みによってこの世を治められるという預言です。完全な支配は、イエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことを通して、すでに、イエス・キリストの統治はこの世界に始まっています。死からよみがえられたイエス・キリストは今、天のみ座にあげられ、父なる神の右に座しておられます。「イエスは主」という時、私たちはこのイエス・キリストの統治を認め、告白しているのです。

今日は、主の日です。王の王、主なる主、我らの救い主、イエス・キリストに賛美と礼拝を捧げましょう!

イザヤ 15章

「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び失せた。ああ、一夜のうちに。キル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」(1節)

 モアブという地名は聖書の中で幾度となく登場します。有名なところでは、ルツ記のなかでルツが「モアブの女」、つまりモアブ出身であったことが記されています。イザヤ書15章は最初から最後までモアブに対する厳しい宣告が書かれていますので、読んでいると絶望的な気持ちになるかもしれません。しかし、そんなモアブ人ルツの子孫からこの後に救い主が誕生するのです。マタイの福音書の1章に、アブラハムからイエス・キリストまでの系図が出てきますが、わざわざ『ルツによって』と、記されています。暗闇から光へと導きだしてくださる主が、今日も私たちと共におられることを覚えつつ歩みましょう。