出エジプト 21章

「もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」(32節)

奴隷の値は銀貨30枚だと言うことです。ゼカリヤ書にこうあります。

「彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』」(11:12,13)

イスラエルの牧者として労された神に対し、イスラエル人がつけた値は奴隷の値段と同じ銀貨三十シュケルでした。ある神学者は、これは

「神の愛に対する罪人の嘲笑的評価の象徴」

だと言います。イスカリオテのユダも、キリストを銀貨三十枚で売りました。(マタイ26:15)つまり、神が遣わしてくださった神のひとり子イエス・キリストに、嘲笑的評価を下したと。イエス・キリストは私たちを愛するがために、そこまでご自身を低くされました。

出エジプト 20章

「そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。」(21節)

20章は有名な「十戒」が記されている箇所です。18節に

「民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。」

とあるように、それは恐ろしい、震え上がるような光景だったことが想像させられます。この箇所で興味深いのは、

「神のおられる暗やみ」

という表現です。私たちは神がおられるところに暗やみはないと考えます。しかし、モーセは光にではなく、暗やみに近づいて行ったとあります。暗やみだからといって、神がそこにおられないというわけではないという意味かもしれません。イエス様が十字架で死なれた時、全地は暗やみに包まれ、誰もが神の不在を感じました。しかし、神はそこにおられました。真暗闇の中に神はおられ、救いの御業が成し遂げられました。私たちは今暗闇のような十字架から神を見るのです。

出エジプト 19章

「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」(18節)

シナイ山での神の顕現の様子が描写されています。「神の臨在」は、元来、罪ある人間にとっては震え上がるような恐ろしいものでした。軽々しいものではありません。しかし、神と人との仲介者、大祭司としてイエス・キリストは人となり、十字架で死んでくださいました。ですから、私たちは今、恐れることなく、神の御前にでることができます。聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15,16)

今日は主の日です。主の御座に大胆に近づきませんか?

出エジプト 18章

「あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。」(18節)

責任感が強い人は、何もかも自分一人でなんとかしなければと思います。しかし、一人でできることは限られています。私たちは協力者を見つけ出し、一緒にやっていくということを学ぶ必要があります。そうでなければ、自分も潰れ、周りも疲れ果ててしまうということになりかねません。使徒パウロは言いました。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:2,5)一見、矛盾して聞こえますが、原文では「重荷」と訳された単語が違います。五節の「重荷」は「リュックサック」とも訳せる言葉です。つまり、それぞれが負うべき自己責任の重荷と、一人では負えない重荷があります。

出エジプト 17章

「ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。」(10節)

ヨシュアが戦っていたのですが、丘の頂に登ったモーセたちの祈りが戦いを左右しました。それは、丘に登って祈ればすべてが解決するということではなく、ヨシュアが戦ったように、現実に戦う必要があることも、私たちに示唆しているように思われます。教会は、祈祷会も大切ですし、実践的な働きもする必要があるということだと思います。モーセはまた、一人で丘に登ったわけではありませんでした。一人で祈ることも大切なことですが、一緒に祈ることも大切なことです。祈祷会は、共に丘に登って、祈るようなものだと思います。私たちの祈りがこの日本を左右するとするならば、私たちは祈りの手を下げずに、支えあって、祈り続ける必要があります。教会は、祈りの勇士をいつも必要としています。

出エジプト 16章

「主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。」(4節)

神が与えてくださった食物は一日分でした。私たちは日ごとに神が与えて下さる食物、みことばをいただく必要があります。「過去にたくさん聖書を読んだから、今はもう毎日読まなくてもいい」ということにはなりません。神は朝ごとに彼らに新鮮な食物を与えてくださいました。同じように神は今日も新鮮なみことばを聖書を通して私たちに与えてくださっているのです。神はこの約束を「エジプトのほうが食べ物があって良かった」と不平不満を言う人々に与えました。彼らは荒野の中で紅海の奇跡も忘れ、乳と蜜の流れる地に対する約束さえも忘れていました。過去を美化しても何も始まりません。毎日、新鮮な主のみことばをいただくことができますように。

出エジプト 15章

「主はとこしえまでも統べ治められる。」(18節)

紅海が二つに分かれるという劇的な体験をした時、モーセたちは主に向って歌を歌いました。

「そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。」(1節)

この賛美の歌は、「主はとこしえまでも統べ治められる。」で閉じられます。

「神の統治」、それが「神の国」であり、このことを宣言することこそが福音であり、いつの時代も賛美の主題です。紅海を渡るように、水のバプテスマを受けることも、劇的な体験です。イエス・キリストを信じ、水のバプテスマを受ける時、私たちもこの歌が与えられます。イエス・キリストを信じることは、まさに、主の統治を認めることだからです。まず、自分の個人的な人生における主の統治を認めます。そして、十字架で死に、葬られ、よみがえられたイエス様が、この世界を統治されていることを認めます。

出エジプト 13章

「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。」(21、22節)

神はイスラエルの人々のために、荒野の道に迂回させました。(17,18節参照)たとえ近道があったとしても、私たちにとって最善の道の方へと導かれるということです。とはいえ戦いがなくても、荒野には苦しみがあります。そもそも荒野は人が住めない所であり、見捨てられた地です。しかし、イスラエルの人々の前には、昼は雲の柱、夜は火の柱がありました。神が彼らのただ中におられて、彼らを導かれました。同じようにイエス様は言われました。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)

出エジプト 12章

「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」(13節)

イエス・キリストの十字架の御業の背景には、この出エジプトの話があります。イエス・キリストが血を流して十字架で死ななければならなかった理由がここにあります。この箇所を理解しなければ、ヨハネ3:16

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

は分かりません。

イエス・キリストが十字架の上で血を流されたがゆえに、イエス・キリストを信じる者に「滅びのわざわいは起こらない」。

今日は主の日。

イエス様の十字架の御業を感謝し、礼拝を捧げましょう!

出エジプト11章

「主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。」(1節)

私たちの人生にも、ある意味エジプトのような存在があるのではないでしょうか。私たちの人生の上にのしかかり、まるで自分の運命を支配してしまっているかのように感じる何かがあるのではないでしょうか。しかし、本当の自由は、反乱によってはもたらされません。神様が与えてくださる解放だけが、本当の自由を与えることができます。聖書は言います。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

「主よ、あなたが与えてくださった自由に生きられますように。」