1歴代誌 11章

「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(10節)

イエス・キリストは「ダビデの子」と呼ばれました。ダビデの王権は、神からの王権で、預言者サムエルがダビデに油を注いだ時点で、彼は王でした。しかし、ダビデの勇士たちが彼の王権を強固にし、彼を王としたと言います。イエス・キリストは十字架で私たちのために死なれた時、暗やみの力に対して勝利をとられました。復活というのはその証拠です。イエス・キリストが王であることには変わりはありませんが、私たちはこの地上において、イエス・キリストの王権を強固にしていく使命があります。そのためには、まず、口先だけではなく、自分自身が日々、イエス・キリストを王として生きていく必要があります。

1歴代誌 10章

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(13,14節)

サウル王の一番の問題、それは、主に尋ねなかったことだと聖書は言います。祈りはキリスト教の核心です。なぜならば、一番大切なことは神との関係を育むことだからです。日々の生活の中で、「主よ、導いてください」と祈りによって尋ね求めることは本質的に大切なことです。そして、聖書のみことばに耳を傾け、その箇所を黙想します。「主よ、この箇所から、あなたは私に今、何を語ろうとしているのでしょうか?」と思い巡らします。主は、言われます。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

1歴代誌 9章

「この人々は歌うたいであって、レビ人の一族のかしらであり、各部屋にいて、自由にされていた。昼となく夜となく彼らはその仕事に携わったからである。」(33節)

神に賛美を捧げる人々は、昼となく夜となく神に賛美を捧げるように他の仕事から自由にされていました。LBではこう訳しています。「歌手たちは、みな優秀なレビ人で、エルサレムの宮に住み、四六時中、その仕事につきました。彼らは特に選ばれた者たちで、ほかの責任はいっさい免除されていました。」つまり、それほど神に賛美の歌を捧げることが重要視されていたことが分かります。彼らはもちろん目に見える聴衆がいなくても、ただ神に賛美の歌を歌うことを大切にしていました。目に見える聴衆がいなくても、ただ神に最高の賛美を昼となく夜となく捧げたというのです。私たちも、誰も私たちの賛美を聴く人がいなくても、ただ神に、一生懸命賛美を捧げることに意味があります。

1歴代誌 8章

「ヨナタンの子は、メリブ・バアル。」(34節)

8章はベニヤミン族の家系、サウル王の家系が記されています。サウル王は戦死し、彼の家系で唯一残るのがメリブ・バアル、すなわち、メフィボシェテです。ダビデとヨナタンの友情のすばらしさは、ヨナタンの死後、メフィボシェテに注がれました。そして、彼の子孫は祝福され、発展していきます。ここに神の恵みを見ます。メフィボシェテの祝福は、ただ、その父ヨナタンのゆえでした。同じように、私たち人類の祝福はみな、イエス・キリストにかかっています。イエス・キリストのゆえに、私たちの人生は祝福へと変わるのです。ですから、イエス・キリストを信じて、神の子として新生することがとても重要なのです。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)

1歴代誌 7章

「彼女はみごもって男の子を産んだ。彼はその子をベリアと名づけた。その家がわざわいのさなかにあったからである。」(23節)

ベリアとは、災いという意味です。ベリアの父、エフライムの二人の子は、律法を犯して殺されてしまいます。その反省も兼ねて、生まれた子に「災い」とつけたのです。興味深いことは、この子孫から、モーセの後継者、ヌンの子ヨシュアが生まれるのです。神は大きな罪を犯した者の子孫を用いて、重大な任務につかせたのです。私たちは弱く、失敗を犯しやすい者です。しかし、キリストは、私たちが悔い改めるならば、私たちを赦し、もう一度チャンスを与えてくださいます。キリストは、ご自身のもとに来られる者たちに言います。

「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ。」(マタイ9:2口語訳)

失敗は終わりではありません。神はセカンドチャンスの神です。キリストの中でマイナスはプラスになります。

1歴代誌 6章

「箱が安置所に納められて後、ダビデが主の宮の歌をつかさどらせるために立てた人々は次のとおりである。彼らはソロモンがエルサレムに主の宮を建てるまでは、会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、おのおのその定めに従って、奉仕を担当した。」(31,32節)

ダビデは主の宮で一日中賛美の歌を歌うように音楽家たちに命じました。「彼らは会見の天幕の臨在の場所の前で音楽をもって仕えていた」(英訳)。主の臨在の場所はいつも、神への賛美に満ちていました。ですから、教会の中にいつも賛美と礼拝の歌の音楽が流れていることは大切なことです。神への賛美の音楽が満ちているならば、神の臨在を想起させる場所となるからです。逆に、どんなに立派な大聖堂があっても、神への賛美の音楽が聞こえなくなってしまうならば、教会としての意味を失ってしまっているのかもしれません。

1歴代誌 5章

「それは、彼らがその戦いのときに、神に呼ばわったからである。彼らが神に拠り頼んだので、神は彼らの願いを聞き入れられた。」(20節)

イスラエルのルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ハガル人とその連合軍との戦いの時、ひたすら神に信頼し祈ったがゆえに、祈りが聞かれたと聖書は解説します。ジョン・コーソン師はこう言います。

「このことは私を励まします。なぜなら、祈るのに遅すぎることはないということだからです。」

たとえ祈らずにはじめてしまって、戦いの中にいる自分に気づいてしまったとしても、遅すぎることはありません。今、私たちはイエス様の御名を呼び求めることができます。神は私たちの祈りに答えられます。祈るなら希望があります。

「ひたすら神様に信頼していたので、祈りが聞かれ、ハガル人とその連合軍をみごとに打ち破ることができました。」(LB)

今日は主の日。主を共に礼拝しましょう。

1歴代誌 4章

「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(10節)

系図がただ続く中で、まるで通読する人のオアシスのように、このコメントが目にとまります。ヤベツという人に関しては、ほとんど分かっていませんが、彼の祈りが彼の人生を変えたことを聖書はどうしても伝えたかったのだと思います。ヤベツの人生を変えた神は今も生きておられます。今も同じように、私たちの祈りに答えてくださいます。

「愛する天のお父様。どうか私を大いに祝福してください。私の領土を広げてください。御手が私と共にありますように。災いから私を守り、私が苦しむことのないようにしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」

1歴代誌 3章

「ダビデはそこで七年六か月治め、エルサレムで三十三年治めた。」(4節)

ダビデがしたことに関しては、後の章で詳しく出てはきますが、この章では、この一行にまとめられています。これは、私たちに対する警告にも受け取れます。私たちのこの世での歩みは一時的で、束の間にすぎないということです。「人生を導く五つの目的」(PDL)の中にこんなことが書いてあります。

「神の目から見た信仰の偉大なる英雄とは、この人生において繁栄を誇り、成功を収め、権力の座に就いた人のことではなく、この人生を一時的なものと受けとめ、永遠において神が約束された報いを受け取ることを期待して、神に忠実に仕えた人のことなのです。」

「この地上における人生が一時的なものにすぎないという事実を受け止めて、今という時を、神の栄光のために生きることができますように。」

1歴代誌 2章

「彼の嫁タマルは彼にペレツとゼラフとを産んだ。」(4節)

聖書の中で、タマルの話はどちらかというと隠しておきたい内容だと思います。創世記38章にでてくるこの話は、ダビデ王の系図に傷をつけるような話に見えます。しかし、神の目は私たちとは違います。神はタマルの名前を抹殺するどころか、タマルをあわれみ、タマルの子孫を王家の系図に入れられました。神の目にはタマルも大事な存在だと言うのです。系図の興味深いところは、それぞれの名前の中に、数々のドラマがあるということだと思います。聖書に名前が記されていると言うことは、神は私たち一人一人に関心をもっておられ、私たち一人一人を名前でご存知だということでもあると思います。イエス様もある時こんなことを言いました。

「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」(ヨハネ10:3)

「主よ、あなたが私の名前も覚えておられることを感謝します。」