詩篇 35篇

「私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。」(27節)

神はご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主です。繁栄することが悪いことではなく、繁栄をどう用いるかが問題です。繁栄を目的に生きていく時に、人生は崩れていきます。しかし、過度に繁栄を否定するべきではありません。神はご自分のしもべが繁栄することを願っておられるからです。「しもべ」は、「仕える者」のことです。「仕える心」をもつ人が繁栄するならば、その繁栄は、さらに「仕える」ために有効に用いられることだと思います。ですから大事なのことは「仕える」ことと言えると思います。イエス様はおっしゃられました。

「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(マタイ23:11)

神は仕える心を持つ人を捜し、その人の繁栄を喜ばれます。

詩篇 34篇

「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(8節)

英語の訳では、

「味わい、見つめよう、主が善い(GOOD)ということを」

と訳しています。神を味わうという表現は面白い表現だと思います。まさに、神との関係は頭の中の話ではなく、体験する世界ということだと思います。哲学的に神学を勉強するだけではなく、実際に神を味わうことがなければ、本当の意味で神を知ることができないということだと思います。つまり、膝を屈めて祈ることを通して、神ご自身を味わう必要があるということです。礼拝者として、他の礼拝者たちと共に神に礼拝を捧げることを通して、神のすばらしさを見る必要があるということです。味わうためには、口を開ける必要があります。見るためには、目を開ける必要があります。神が善いお方、素晴らしいお方だということを知りたいのであれば、信仰によって神を味わう必要があります。

詩篇 33篇

「新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」(3節)

私たちの社会は、常に新しいものが生み出されていきます。新製品という話だけではなく、旬の食材が食卓に並ぶ時、私たちは新鮮さを味わいます。私たちと神との関係も新鮮さが必要です。伝統的な歌も大切ですが、日々、新しい歌を覚えることに挑戦することも大切です。過去感動した聖句も大事ですが、日々、新鮮な気持ちで聖書を読んでいく必要があります。過去に感銘を受けた説教を心に留めることも大切なことですが、神が今という時に、説教者を通して語ろうとしていることに心を開いていく必要があります。神は今生きておられ、新しい事をなさる方です。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19)

詩篇 32篇

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(8節)

神は私たち一人一人を愛し、気にかけ、導いてくださるお方です。LBではこう訳しています。

「主はこう言います。わたしはあなたを教え、最善の人生へと導こう。助言を与えて、一歩一歩を見守ろう。」

日々、祈りつつ聖書を読む中で、確かに神が導かれていることを感じます。時宜にかなった「みことば」を発見することがあります。また、神ご自身が、私たちの内に働かれ、思いが与えられることがあります。特別な方法で導かれることもあります。ただ、

「くつわをはめなければ言うことを聞かない、馬やらばのようになってはいけない」(九節LB)

とあるように、思考を停止させてはいけません。今日は主の日。私たちを見守り導いてくださる主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 31篇

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」(24節)

メッセージ訳はこう訳しています。

「勇敢であれ、強くあれ、あきらめるな。神がすぐここに来られることを期待しなさい。」

神は私たちが人生のどんな状況でも、神に期待して生きることを願われています。このような訳もあります。

「だから強くあれ、勇敢であれ、主の内にあなたの希望をおく、すべての人よ」(NLT)。

私たちはどちらかというと「期待しないほうが、がっかりしなくて済むだけましだ」と考えます。しかし、それは、神が私たちに願われている生き方とは違います。もちろん、自分の思い通りに神が動いてくれるように期待するならば失望すると思います。神の思いは私たちの思いよりも高いからです。しかし、神のみこころの中に生きるならば、「人が、これまで見聞きしたことも、想像したこともないほどすばらしいことを、神は、ご自分を愛する人々のために用意してくださった」世界を期待できます。

詩篇 30篇

「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(5節)

私たちの人生は夕暮れと朝明けの繰り返しです。順境の日があれば、逆境の日があります。LBでは、6、7節をこう訳しています。

「順境の日に、私は言いました。『いつまでも今のままだ。だれも私のじゃまはできない。主が恵んでくださって、私をびくともしない山のようにしてくださった。』ところが、神は顔をそむけて、祝福の川をからしたのです。たちまち私は意気消沈し、恐怖におびえました。」

私たちの人生はまさにこのような涙と喜びの繰り返しだと思います。寒い冬が終わり、暑い夏が来て、収穫の秋が来るように、私たちの人生にも様々な季節があります。ですから聖書は言います。

「あなたがたの中に悩んでいる人がいますか。その人は、神に祈り続けなさい。また喜んでいる人がいるなら、昼も夜も主を賛美しなさい。」(ヤコブ5:13LB)

詩篇 29篇

「主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。」(11節)

神は私たちに力を与え、平安をもって祝福してくださるお方です。「平安」と訳されたことばは、「シャローム」です。平和、平安という意味もありますが、「健全」とか「繁栄」という意味もあります。この29篇に出てくる様々な表現はもともと、約束の地の先住民だったカナン人の神、バアル神に用いられていたものだと言われています。それを、まことの神である主に代えて、本当に力あるのはバアルではなく、主だとしたと言われます。救世軍の創始者、ウィリアム・ブースは、「どうして悪魔が全部いい音楽をもっているんだ」と言って、当時のポピュラー音楽を、神を礼拝する音楽に変えたのは有名な話です。伝統的な聖歌の旋律の多くは、当時のポピュラー音楽を取り入れたものでした。この世しか見えない人々に、その上に座す、主を指し示すことができますように。

詩篇 28篇

「私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。」(2節)

「手を上げる」というのは祈りの姿勢です。LBではこう訳しています。

「主よ、私は両手を差し伸べ、主が助けて下さることをひたすら願っているのです。」

Ⅰテモテ2:8にこうあります。

「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

初期のクリスチャンの祈りの絵は手を上げています。私たちが今「手を上げる」ことと連想することは

「降参」

だと思います。まさに、神の前に降参して、

「私はあなたが必要です!」

と示すことが、手を上げる意味でもあります。手を上げて「神様、あなたが必要です」と叫ぶ、その叫びを主は聞いておられます。神は私たちの祈りを聞かれるお方です。神に祈るならば希望があります。

詩篇 26篇

「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」(1節)

「私を弁護してください」と訳された言葉は、本来は「裁き」を意味する単語です。ですから、口語訳ではこう訳しています。

「主よ、わたしをさばいてください。」

この姿勢は大事です。私たちは

「他の人をさばいてください」

と祈るかもしれませんが

「わたしをさばいてください」

と祈るでしょうか。聖書は他者を裁くことを厳しく戒めています。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカ6:36,37)

自分を神に裁いていただく時、ただ神の恵みによって、今があることを認めざるを得ません。

詩篇 25篇

「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(9節)

「貧しい者」を文字通り経済的なものとしてだけとらえてしまいますと、神が語ろうとしている意味を見失ってしまう可能性があります。LBではこう訳しています。

「謙遜になって主のもとに帰る人に、主は最良の道を教えてくださいます。」

単に貧困にあえぐ人に神が憐れまれるということではなく、

「私には神がどうしても必要」

だと謙遜になって神を求める人に、神がご自身の道を教え、導いてくださるということです。アルゼンチンで起きたリバイバルは良い例です。インフレでお金の価値がなくなり、人々は銀行に信頼できなくなりました。仕事もなくなり、企業にも信頼できなくなりました。汚職ばかりで政治にも信頼できません。ただ、神に求める以外どうしようもないという状況の中で、リバイバルが起きたのです。

今日は主の日。謙遜になって主のもとに帰りましょう。