詩篇 107篇

「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」(8,9節)

驚くことに私たちの身体は、どんなに食べても、しばらくすると食物を欲するようになります。ですから、肉の欲求を満足させることだけを考えるならば、いつまでたっても満足することはありません。一時的に満たされたと感じても、しばらくすると、もっととなります。人は肉体的な飢え渇きだけでなく、たましいの飢えがあります。飢えたたましいは、食物で満足させることはできません。イエス様は言われました。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

イエス・キリストだけが、飢えたたましいを良いもので満たすことができるお方です。

詩篇 105篇

「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」(4節)

今日の箇所は私たちに三つのことを求めるように告げます。

まず第一番目に、主ご自身です。私たちが本当に必要なのは、何かではなく、主イエス・キリストご自身です。私たちの本当の必要に唯一答えることができるのは、主イエス・キリストだけだからです。

第二番目は、その御力です。主は力ある神です。神に不可能なことは一つもありません。人にはできないことも、神にできないことはありません。私たちは、この全能の神を求める必要があります。

第三番目は、御顔です。御顔と訳された単語は、「臨在」とも訳されます。私たちは主の臨在を求める必要があります。「御国が来ますように」という祈りは、今、この時、神の臨在がこの場所にあることを求める祈りでもあります。神の御国(支配、統治)が、今、ここにありますように。

詩篇 103篇

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(2節)

私たちはつらかったことや傷つけられたこと、腹立たしい出来事を思い出しやすい傾向があると思います。そして自己憐憫に陥ったり、憎しみに縛られていってしまうことがあります。けれどもここで詩人は、神様がしてくださった「良い」ことを『何一つ忘れるな』と勧めます。詩人は

「あなたがなしてくださった数々のすばらしいことを私は決して忘れません。」(LB)

と言います。私たちは何よりも、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、私たちの過去、現在、未来の罪を赦していただいたことを忘れてはいけないと思います。11節にはこう書いてあります。

「神を恐れ、あがめる者には、無限のあわれみをかけてくださいます。」(LB)

否定的にならず、主の恵みを数え、主を恐れ、主をあげめることができますように。

詩篇 102篇

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。」(17節)

神様が忙しすぎて、私たちの祈りを顧みることができないということはありません。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「神は、苦闘している人の祈りを聞いてくださいます。主には、忙しくて彼らの願いが耳に入らないということはありません。」

理解できない状況の中にいる時ほど、この真理をしっかりと握り締めて宣言する必要がある時はありません。分からないことのゆえに、分かっていることを犠牲にすべきではありません。神は私たちの叫びを聞いてくださるお方です。今日も、主の御名を呼び求めましょう。主は聞いてくださっています。そして、最高のタイミングで、主は私たちの祈りに応えてくださいます。

今日は主の日。共に主を呼び求め、主に礼拝をささげましょう。

詩篇 101篇

「私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。」(1節)

英語の聖書では、今日の箇所をこう訳しています。

「わたしのテーマソングは、神の愛と正義です。」(MSG)

神の国の国民のテーマソングは、「神の愛と正義」だと言います。具体的には2節にこのように詩人は歌っています。

「私は潔白な道を歩もうと心がけていますが、神の助けなしには何もできません。特に、私の家において、あなたの御心に添って歩むことができるよう助けていただきたいのです。」(LB)

まず、日常の生活の中で、神の助けをいただきながら、自分ができる最善を行なっていくことが、「神の愛と正義」をテーマソングにして生きていくということだと言います。

「あなたの御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように。」

詩篇 100篇

「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(3節)

「知れ。主こそ神。」これほど力強い言葉はないと思います。英語の聖書では

「これを知りなさい。神は神。(GOD is God.)」(MSG)

私たちは、自分の命を自分で一日も伸ばすことができないのと同じように、自分にはどうすることもできない領域があることを謙虚に受け止める必要があります。人は永遠に神になることはありません。神は神です。神は私たちを造られた方です。私たちは、この神に属する者であり、神の民、神の守りの中にある民です。パウロは、この真理を苦しみの中で見いだしました。

「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(Ⅱコリント1:9)

主が神であるとはどんなことか、知ることができますように。

詩篇 99篇

「主は、雲の柱から、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。」(7節)

出エジプト記の中で、カナンの地を目指すイスラエルの民を昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いたと記されています。そして、神がモーセと語られる時、天幕の入口に雲の柱が立っていたとあります。雲の柱は神の臨在の象徴です。この天幕において、

「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」

のです。今、神は祈りと聖書を通してわたしたちと語られます。昔のように雲の柱は出てこないかもしれませんが、イエス様の御名の中で祈るとき、どこにいても神の臨在の中に身を置くことができます。モーセと親しく語られた神は、私たちとも親しく語ってくださいます。聖書のみことばは、私たちに語りかけ、私たちに応答を求めます。

「彼らは従順に従いました。」(7節LB)

とありますように、神のみことばに従っていくことができますように。

詩篇 98篇

「立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。」(5節)

古代の壁画や遺跡などをみると、数多くの楽器がはるか昔から使用されていたことがわかります。わたしたちは聖書に中にも様々な楽器を見ることができるのですが、その実際の音色は残念ながら聴くことができません。これは、たぶん私たちがそれぞれの時代のそれぞれの文化の馴染みのある楽器を用いて神にほめ歌を歌うようにという意味だと考えられます。詩篇は、その歌の調べ(メロディ)も分かりません。これも、その時代のその文化に馴染みのあるものに変えて欲しいという意味だと思われます。詩篇の時代の人々が馴染みのある楽器を用いて、馴染みのある調べで神様にほめ歌を歌ったように、私たちも、この時代に生きているものとして、馴染みのある調べを、馴染みのある楽器を用いながらよい音色をもって神様に賛美をささげることができますように。

詩篇 97篇

「主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。」(1節)

イスラエルの人々の祈りは、主ご自身が彼らの王となることでした。王が意味することは「統治」です。「神が統治する」、これ以上の良い知らせはありません。神の統治は、イエス・キリストの十字架によって、この地にもたらされました。憎しみと争いが統治するこの世界に、愛と赦しの統治を十字架によってもたらしました。十字架の上でキリストは祈られました。「父よ、彼らを赦したまえ。」神の愛と赦しの統治は、死をもって終らせることはできませんでした。キリストは死の力を打ち破り、よみがえられました。神の愛と赦しの統治は、今も、広げられています。私たちは憎しみの力に負けてはいけません。十字架と復活のイエスを見上げて、神の愛と恵みの統治の知らせを伝えていかなければなりません。
「神は統治される。叫ぶ何かがあります。」(1節MSG)

詩篇 96篇

「国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」」(10節)

詩人は言います。

「主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。」(2節)

「御救いの良い知らせ」は10節にあります。

「主は王である。」

人ではなく、主(ヤハウェ)なる神が王となられること、すなわち神ご自身が統治される神の御国こそが本当の救いです。それが、まさにこの世界の終わりにもたらされることです。しかし、同時にイエス・キリストはこう言われました。

「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(ルカ11:20口語訳)

神の国の王、神の御子、イエス・キリストよって神の国、神の支配はすでにこの世界にもたらされています。だからイエス・キリストの十字架の死と復活を伝えることが福音を告げることです。