箴言 23章

「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ。確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない。」(17,18節)

「終わり」と訳された単語は「将来」とも訳せます。同じ単語が、エレミヤ書に出てきます。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(29:11)

神様が与えると約束された「将来」と訳された言葉が同じ言葉です。ですから、今日の箇所が教えていることは、私たちの将来は神を恐れるかどうかにかかっているということです。神を恐れる者には未来があります。希望があります。失望に終わることはありません。

箴言 22章

「なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される。」と。」(13節)

LBではこう訳しています。

「怠け者は『仕事になんかとても行けない。外に出たら通りでライオンに食い殺されるかもしれない』と言いわけをします。」

つまり、起こる確率が低いようなことをもっともらしい言い訳にして、逃げていてはいけないという意味です。当時のイスラエルにライオンがいたことは確かです。しかし、ライオンに食い殺される確立はほとんどなかったはずです。それはちょうど、交通事故にあうかもしれないから、仕事に行けないと言っているようなものです。もっともらしい言いわけをして、逃げの人生を送ることは、神のみこころではありません。ジグ・ジグラーというクリスチャンの講演家は、こんなことを言っています。

「しなければならないときにしなければならないことをすれば、したいときにしたいことをできる日が、きっと訪れるだろう。」

箴言 21章

「悪者はあつかましく、正しい者は自分の道をわきまえる。」(29節)

LBではこう訳しています。

「悪人は強情ですが、神を恐れる人は、悪いとわかれば素直に考え直します。」

チャック・スミス師はよくこう言っていました。

「柔軟な人は幸いです。その人は折れません。」

完全な人など、この世界には存在しません。誰もが間違えることはあるものです。ですから問題は、自分が悪いと気づいたときに、強情になるか、それとも素直に考え直すかということになります。そういう意味で、柔軟さは、私たちの人生でとても大切です。ですから聖書は言います。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(?ヨハネ1:9)

箴言 20章

「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。」(4節)

誰の人生にも、「冬」のような時期があります。何をしてもうまくいかないように思える時・・・。しかし、聖書は、そのような時こそ大事な時だと言います。誰にも認めてもらえないような時に、どれだけ学び、下積みできるかで、私たちの人生は変わっていきます。宗教改革の指導者、マルチン・ルターは、命を狙われる人生の冬のような時期に、コツコツと聖書をドイツ語に翻訳し、ドイツ語の聖書を完成させました。アルファのニッキー・ガンベル師は、こんなことを言っています。

「あなたが苦闘しているからといって失敗しているわけではない。すべての偉大な成功は、そこに到達するまでに何らかの苦闘が必須である。」
「冬のうちに耕しておかないと、刈り入れ時になっても収穫は望めません。」(LB)

箴言 19章

「激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない。」(19節)

LBでは今日の箇所をこのように意訳しています。

「短気な者が失敗したら、自分で後始末をさせなさい。一度でも助けてやると、くり返すようになります。」

冷たい表現のように聞こえるかもしれませんが、ガラテヤ書にもこのように記されています。

「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(6:5)

もちろん、互いに助け合うことも大切なことですが、その人が自分自身で向かっていくようにあえて手を差し伸べないことも大切なことだと聖書は言います。いずれにせよ、私たちは他者から操作(マニピュレート)されないように気をつける必要があります。短気を起こせば何でもしてもらえると思わせてはいけません。

箴言 18章

「愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。」(2節)

近年の特徴は、自分の意見だけを表わすことだと思われます。ブログにツイッターの普及は、そのような傾向の表れだと言われています。自分の意見を主張することは大切なことですが、他者から学ぼうとせず、ただ一方的に自分の意見だけを主張するときに、その発言の内容はとても軽いものとなってしまいます。口は一つですが、耳は二つありますから、人は、自分が話す倍のことを聞く必要があると言う人がいます。神様は確かに、私たちにそのような姿勢を持って欲しいと願っていることは今日の箇所からも明らかです。また、LBでは、今日の箇所を次のように意訳しています。

「神に背く者はただ大声で叫びたいだけで、事実はどうでもいいのです。」

自分の意見だけを主張する人とは議論を避けることも大切です。

箴言 17章

「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(22節)

神様が造られた私たちの身体は、本当におどろくような造りになっています。私たちの身体の中には、物質を作って、それを流すというようなシステムがあります。たとえば、私たちが幸せな時には、私たちの身体は私たちに良い物質を作り出します。お医者さんたちも、幸せが身体をさらに健康にさせるということを発見しています。逆に、悲しみに沈んだりすると、私たちの身体は私たちによくない物質を作り出してしまいます。私たちの身体は、私たちの心の状態に大きく影響されるというのです。

「心が陽気になれば体も健康になり、気がふさげば病気になります。」(LB)

ヘレン・ケラーが言ったように、

「私は、キリストにあって幸せです。」

と告白することは、とてもいい健康法です。

今日は主の日。共に主に、感謝をもって礼拝を捧げましょう。

※ 本日のSSCの第三礼拝(18時から)はお休みです。

箴言 16章

「正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる。」(8節)

天国で一番貧乏な人になるほうが、地獄で一番裕福な人になるよりもはるかに勝っています。モーセは、エジプトの王子として裕福な生活をしていました。しかしモーセは、

「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル11:25,26)

神が私たちに与えてくださるものは、この世が私たちに与えるものよりもはるかに勝っているのです。ですから聖書は言います。

「人をだまして大もうけするより、わずかずつでも正直に稼ぐほうがましです。」(LB)

箴言 15章

「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」(15節)

「黒猫が自分の前を横切ると悪いことが起こる」という迷信を聞いたことはありませんか?私たちは多かれ少なかれ、育っていく中で「こうすると何か悪いことが起こる」という迷信に影響を受けてはいないでしょうか。どんなに小さな出来事でも、悩み始めると雪だるま式に大きくなっていきます。何の根拠もない迷信に影響されて日々を過ごすことほどもったいない生き方はありません。『根拠のない』迷信に汚染されていないでしょうか。聖書が明確に私たちに語っていることは、神が私たちを愛し、気にかけ、必要を備え、将来と希望の計画を持っておられるということです。イエス・キリストが私たちの心に住んで下さるなら、私たちの心に楽しみがあります。キリストと共にある人生は、毎日が宴会です。

箴言 14章

「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(4節)

確かに、牛がいなければ飼葉おけは汚れることはありません。しかし、それでは飼い葉おけの意味がありません。たとえ飼葉おけが汚れたとしても、牛が存在していることに意味があります。同じように、教会も人がいなければ問題は起きないかもしれませんが、人がいなければ教会の意味がありません。たとえトラブルが起こったとしても、様々な人が教会に存在していることに意味があります。私たちが生きている限り、問題がなくなることはありません。しかし、それでも生きていくことに意味があります。LBでは、次のように訳しています。

「働かなければ、手を汚さない代わりに収入もありません。」

すべてのマイナスはプラスになります。