イザヤ 9章

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(6,7節)

旧約聖書はメシアが生まれることを予言しました。イスラエルのメシアとは、「平和の君」と呼ばれる存在です。「平和」と訳された単語は「シャローム」。それは、単に「争いがない状態」という意味だけではありません。欠けや隙間がない完全なれんが造りの壁という意味があります。つまり、イエス・キリストは、壊れた関係を修復し、癒し、回復するために生まれました。イエス・キリストは、神との関係、他者との関係に、シャロームをもたらす平和の君です。

ダニエル 9章

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(18節)

祈りは、私たちの善行に土台しません。神の大いなるあわれみに土台しています。あわれみとは何でしょうか?辞書ではあわれみを二通り定義しています。

一つ目は、「罰することを止めること」。

二つ目は、「予期せぬ親切」。

神のあわれみにもこの二通りを見ることができます。赦しの側面と共感の側面です。赦しの側面は、私たちがどんなに罰を受けるのにふさわしくてもそれを控えられること。共感の側面は、予期せぬ親切をもって私たちを助けてくださること。神のあわれみのゆえに、神はあなたが許しを求め、助けを求めるように招かれています。

ダニエル 9章

「あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。」(9節)

この世界は神を裁きの神として描写します。しかし神は、何よりもまずご自身をあわれみの神として現わされます。あわれみは聖書における神の第一のご性質です。神の主権、全知、全能、遍在よりも、怒り、正義、裁きよりも、神の第一の性質はあわれみです。神がモーセにご自身の栄光を現わした時、十戒を与えた時、神はこう言われました。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み」(出エジプト34:6)

まず何よりも主はご自身を、

「あわれみ深く」

と言われています。

「主、主は、正しく、義であり」でも、「永遠であり、全能である」でもありません。まず神は言われます。

「わたしはあわれみ深い神。わたしがあなたのためにするすべてのことは、わたしのあわれみから流れ出ている。」

ダニエル 9章

「私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。」(4節)

神に何かを求める時、私たちは感謝の心をもって求めることが大切です。神の愛と神の約束に感謝しましょう。神のやさしさと信実に感謝しましょう。具体的に、感謝リストを作りましょう。そして、神に何かを求める前に、数分間、神が何をしてくださったかを感謝しましょう。感謝をすればするほど、神のご性質を知ることができます。そして、神のご性質を知れば知るほど、あなたが祈る時、さらに信仰をもって祈ることができます。

箴言 8章

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」(17節)

神は私たちが神を捜すことを願っています。神は私たちから隠れているわけではありません。神は私たちが神を見つけることを待っておられると言います。大切な点は、私たちは捜さなければならないということです。捜すと言うことは、簡単に見渡せばいいという以上の話です。焦点を合わせて捜すことに心を集中する必要があります。この箇所で用いられている「捜す」という単語は、熱心に、一生懸命に捜すという意味があります。つまり、「熱心に捜す」という意味は、神を第一にし、答えを得るまで神を追いかけるということです。

今日は主の日。アドベント三週目です。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヨハネ 15章

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(7節)

私たちが神のみことばを知れば知るほど、神の御心の中で祈るようになります。私たちが探している答えの多くは、すでに、神のみことばの中にあります。みことばの中に入れば入るほど、みことばが私たちの中に入れば入るほど、神が私たちに何をして欲しいかだけでなく、神が私たちのために何を約束されたかを知ることが容易になります。神の約束に私たちの信仰を置く時に、奇跡は起こります。

エレミヤ 29章

「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(13節)

主を捜し求めるとは何を意味するのでしょうか。それは障害物を取り除き、主に焦点を合わせ、主に集中し、主から聴くための位置に自分自身を置くことです。私たちは主を捜し求めていると言いながら、他の場所に時間を費やし、探しているということがよくあるのではないでしょうか。私たちは神のみ言葉に浸るよりも、どんなことに時間を費やしているでしょうか。大衆文化、自己啓発、ソーシャル・メディア、テレビのトーク・ショー・・・。もし、本当に神を見いだしたいのなら、神を知りたいのなら、神から聴きたいなら、私たちは、私たちの心をその中に置かなければなりません。あなたの心は何を欲しているでしょうか。

詩篇 115篇

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(1節)

究極的な祈りの目標は神に栄光を帰することです。祈りの目的は、神をあなたが見ていることに合わせることではありません。祈りの目的は、私たちを神の御国、力、神の栄光に合わせることです。神の御国を求めることを、神の御力に頼ることを、神の栄光のために生きることを学ぶときに、神の祝福はあなたの人生に注がれ始めます。

「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく
ただあなたの御名に 栄光を帰してください。
あなたの恵みとまことのゆえに」(新改訳2017)

コロサイ 3章

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。・・・あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(23,24節)

誘惑というのは悪いことをしないということだけではありません。正しいことをしないということもあります。犯す罪と怠慢の罪があります。悲劇と同じくらい快適さには危険があります。神はあなたの快適さのためにこの地に置かれたわけではありません。神は神の目的に仕えるためにあなたを置かれました。あなたはどのように神に仕えているでしょうか?私たちは他者に仕えることによって神に仕えます。たとえそれが不都合に思えたとしても。神様は直接主キリストに対してするように、何事においても真心からすることを願っておられます。

1コリント 13章

「人のした悪を思わず」(5節)

新改訳2017では、こう訳しています。

「(愛は)人がした悪を心に留めず」

思いの中で過去の傷を思い返すたびに、私たちはさらに傷を受けます。傷を手放し、傷つけた人を赦すことが平安への道となります。あなたの思いの中に過去の傷がうずくたびに、その思いを神のもとに持っていき、神の恵みを求め、十字架のもとにその傷を置きましょう。

イエス・キリストは傷ついたその御手を伸ばし、私たちを包んでくださいます。