詩篇 40:1-8

「私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。」(40:1)

原文のヘブル語は、単語を二つ並べると強調表現になるのですが、まさに、この詩のはじめは、「待つ」という言葉が二回続いています。つまり、まず「待ってる。私は待ってる!」という詩人の叫びが描かれています。私たちも新型コロナウイルスの収束を待っています。「いつまで?」と思います。イザヤ書にはこういう箇所があります。

「泣くのも悲しむのも、上から聖霊が臨まれるまでです。そして、悪い荒地が作物を成長せ、肥沃な地が森になります。」(32:15MSG)

「上から聖霊が臨まれるまで」、もちろん、何もしなくてもいいという意味ではありません。ダビデは、「主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」と言います。つまり、主を求め、主に祈り、主に叫び続けることが大事なことです。主は、私たちの口に、「新しい歌」を授けてくださいます。

詩篇 39:1‐13

「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。」(39:4)

身体的に問題がないと、死を意識する人は少ないと思います。しかし、人は死亡率100%であり、その時は必ずやってきます。人間のはかなさを意識しないがゆえに、「人生の意味」という重要な問いをせず、人生を無駄に生きてしまうことがあると思います。人生時計があるならば、自分は今、何時に生きているのかを意識することは、大事なことだと思います。詩人が祈るように、人間のはかなさを認識することは大切なことだと思います。賢く時間を用いて、神に頼り生きていくことを学ぶことができるからです。しかし、キリストが復活されたことを知っている私たちは、はかなさだけではなく、永遠の世界があることも覚える必要があります。神の御国は絶えることはありません。

詩篇 38:13-22

「それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。」(38:15)

問題のただ中、詩人はただ祈って神を待ち望むことを選びました。

「いつまで私は危険な崖っぷちに立っていなければならないのでしょう」(17節LB)

崖っぷちに立ち尽くしながらも、詩人は、ただ主を待ち望むことを選びました。時として私たちができる最善の行動は、ただ主を待ち望み、祈ることです。どんなことよりも、ただ黙って祈りに専心することが善い時があります。詩人はそのことを体験したからこそ、この詩が詩篇として私たちのために記録されたのだと思います。アルファのニッキー先生はこんなことを言っています。

「祈りはキリスト教の中心にあります・・・次のような格言があります。悪魔は、私たちの言葉をあざ笑い、私たちの労苦をばかにする。しかし、私たちが祈るとき、悪魔は震えおののくのだ。」

箴言 8:12-21

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」(8:17)

この箇所の一人称単数の「わたし」は、12節にあるように「知恵」(WISDOM)です。「知恵」は13節にあるように、「主を恐れること」「悪を憎むこと」とあるように神との関係から始まります。神を意識することが知識の土台となります。そして、知恵はすべての人が見出すことができます。「わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」(新共同訳)ですから、ヤコブは言いました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

本日の主日礼拝は、第二礼拝(10時半)のみ、YouTubeのライブ配信でおこないます。
教会として、新型コロナウイルス感染の一日も早い収束を祈ります。冷静さを保ち、デマなどに振り回されることなく歩むことが出来ますように。神様の守りと助けをお祈りしています。

詩篇 38:1-12

「主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。」(38:9)

ダビデは自分の愚かさが招く苦しみを理解していました。ダビデは、

「それは私の愚かしさのためです。」(5節)

と告白しています。ダビデは自分の過ちだけでなく、反対者の罠にも対処しなければなりませんでした。

「私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。」(12節)

一難去らずにまた一難と、時には、どうしてこんなに痛めつけられなければならないのだろうと思います。ダビデはこのような中で、神がすべてをご存じであることに慰めを覚えます。神はそれでもなお彼を赦し、救い出してくださると信じていました。預言者エレミヤもこのように歌っています。

「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は偉大です。』」(哀歌3:22,23)

詩篇 37:32-40

「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。」(37:34)

主を待ち望むことなくして、主の道に留まることなくして、この地に居場所をみつける方法はありません。ですからダビデは言います。

「全き人に目を留め、直ぐな人を見よ。平和の人には未来がある。」(37節新改訳二〇一七)

聖書は言います。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル12:2,3)

私たちは未来があります。しかし、イエス様から目を話すならば、元気を失い、疲れはててしまいます。

※ 本日のSSCの祈祷会も、19時半よりYOUTUBEでライブ配信を行います。祈りの課題をお知らせください。
今度の日曜日(3/29)は、昨日神奈川県知事より今週末の外出自粛要請もあり、地域への証の観点からも、第一礼拝と第三礼拝はお休みとし、第二礼拝もYOUTUBEでライブ配信のみとします。インターネットの環境がない兄弟姉妹にはDVDを配布します。ご連絡ください。新型コロナウイルスの収束のため、続けて、祈っていきましょう!

詩篇 37:21-31

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも、倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。」(37:23,24)

ダビデは悪しき者は「取る人」で、正しい人は「与える人」と言います。正しい者は、いつも情け深く人に貸し、その子孫は祝福を得ると言います。神は、そのような生き方を喜ばれると言います。だからと言って、そのような人でも転ぶことはあります。しかし、主がその人の腕を支えておられるから、倒れ伏すことはないと言います。いつまでも倒れたままということはないと言います。ダビデは、その子孫が食べ物を乞うことを見たことがないと言います。これは、世界中のキリスト者へのチャレンジでもあります。パウロは言います。

「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。」(2コリント8:14)

箴言 8:1-11

「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」(8:11)

箴言における「知恵」は人格化されて語られます。「知恵」が単なる思考の問題ではなく「生き方」そのものに関わることを示しています。ですから、箴言は一貫して一時の快楽ではなく、「知恵」を求めることを勧めます。どんな宝よりも「知恵」を求めることを勧めます。それでは、どこでまことの「知恵」を見いだすことができるのでしょうか?新約聖書にその究極的な答えを見ることができます。

「キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリ1:24)

もし、本物の知恵を求めるならば、私たちはイエス・キリストとの関係からはじめなければなりません。イエス・キリストとの関係は、どんな宝にもまさり、何も比べることはできません。

「主よ、あなたは銀よりも貴い。主よ、あなたは金よりも価値がある。主よ、あなたはダイヤモンドより美しい。比べうるものは何もない」

詩篇 37:10-20

「しかし、柔和な人は地を受け継ぎ、豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(37:11)

「柔和な人」とはどういう意味でしょうか。詩篇37篇で言及されていることが「柔和な人」の特徴と言えます。柔和な人は、悪を行う者に腹をたてません。不正を行う者にねたみを起こしません。(1節参照)主に信頼して、善を行い、誠実を養います。(3節参照)なさけ深く、人に施し、悪を離れて、善を行います。(21,27節参照)その心には、神のみおしえがあり、よろけることはありません。(31節参照)LBでは、11節をこう訳しています。

「神の前に謙遜な人は、ありとあらゆる祝福を受け、心地よい平安に身をゆだねるのです。」

さらにダビデは言います。

「主は日々、主を信頼する人の善行をごらんになり、永遠のほうびをお与えになるのです。彼らは逆境のときにも、神に守られています。ききんの年にも満ち足りることができるのです。」(18,19節LB)

詩篇 37:1-9

「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。」(37:1)

まじめに生きることがばからしく思えてしまう時があることは、古今東西変わりません。

「怒るのをやめ、憤りを捨てなさい。くよくよ思い悩んではいけません。自分に害をもたらすだけです。悪者は滅ぼされますが、神に信頼する者には祝福が降り注ぎます。」(8,9節LB)

私たちは、この事実を聖書から聞く必要があります。神を無視して生きていくことは、滅びへの道を歩んでいるということに、気づかされる必要があります。

「不正な手段で金持ちになるより、わずかな持ち物でも満足し、主を信頼して過ごすほうがまさっています。」(16節LB)

正しく生きようとする方が、幸いな人生であることを、私たちは認識する必要があります。

「主は日々、主を信頼する人の善行をごらんになり、永遠のほうびをお与えになるのです。」(18節LB)