ヨハネ 3章

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(3:5)

「神の国」と聞くと、現代人はすぐに死後の世界を想像してしまうと思いますが、少なくとも当時のユダヤ人教師、ニコデモは違ったと思います。

ローマ帝国の支配下にあった彼らは神が直接支配する「神の国」を待ち望んでいたからです。

しかしイエス様はエゼキエルの預言を示唆します。

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」(エゼキエル36:25-27)

ヨハネ 2章

「しかし、イエスはご自分のからだという神殿について語られたのであった。」(2:21)

イエス様の時代の神殿は第二神殿と呼ばれます。

ソロモン王が建築した第一神殿はバビロン捕囚の時に壊されてしまいます。

バビロンから帰還したゼルバベルたちが再建したのが第二神殿です。

「この神殿は建てるのに四十六年かかった。」(20節)という話はヘロデによる改築工事の話です。

旧約聖書と新約聖書の間に、ハスモン王朝と呼ばれるユダヤ人たちが半独立を勝ち取った時代がありました。

その時から神殿はユダヤ民族主義の象徴となってしまったことです。

「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(16節)とイエス様が言われたのは、その場所は、本来、異邦人の庭と呼ばれるユダヤ人以外の人たちが祈るための場所だったからです。

第二神殿も七十年にローマ軍によって破壊されます。

本当の神殿は、神であり人であるイエス・キリストです。

ヨハネ 1章

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

「私たちの間に住まわれた」と訳された言葉は、「幕屋を張られた」という意味です。

旧約聖書の出エジプト記に、イスラエルの民が、エジプトを脱出して、荒野を旅して約束の地へ向かったことが記録されています。

彼らが荒野を乗り越えることができた理由は、彼らの中心にはいつも、「幕屋」があったからです。

「幕屋」が意味したことは、彼らと共に神がおられるということでした。

出エジプト記にこう記されています。

旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。」(出エジプト40:38)。

イエス・キリストは、これと同じように、私たちと共におられるため、私たちの幕屋となるべく、この地にお生まれになられました。

ルカ 24章

「そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」」(24:44)

ヘブル語の旧約聖書は三つの部分に分かれています。

モーセの律法(トーラー)と呼ばれる最初の五書。

ヨシュア記から列王記、イザヤ書からマラキ書までの預言者たちの書と呼ばれる預言書。

そして、詩篇に代表されるヨブ記から雅歌の諸書。

つまり、イエス様が言いたかったことは、旧約聖書が指し示しているのはイエス様のことであり、そして、その全てがイエス様にあって成就するということです。

具体的には46節以下でこのように言います。

次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』

ルカ 23章

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」(23:34)

イエス様は十字架の上で呪いの言葉を語るよりも、赦しを宣言されました。

そんなイエス様の姿は私たちの模範だと聖書は言います。

あなたがたのために苦しまれたキリストが見ならうべき模範となられました。

この方について行きなさい。

キリストは一度も、罪を犯したり、偽りを語ったりなさいませんでした。

侮辱されても、苦しめられても報復をせず、公平にさばかれる神にご自分をお任せになりました。

キリストは、私たちの罪をその身に負って、十字架上で死んでくださいました。

そのおかげで、私たちは罪から離れ、正しい生活を始めることができたのです。

キリストが傷つくことによって、私たちの傷はいやされました。」(1ペテロ2:21-24LB)

ルカ 22章

「主は振り向いてペテロを見つめられた。」(22:61)

ペテロはイエス様に言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(33節)

すべてのご存じのイエス様はペテロに言います。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(34節)

ペテロはイエス様が言った通り、「私はその人を知らない」とイエス様の存在を否定し、鶏は鳴きました。

驚くことは、この時、イエス様が振り向いてペテロを見つめられたということです。

その眼差しはどんな眼差しだったのでしょうか。

責めるような眼差しだったとも思いませんし、がっかりした眼差しだったとも思えません。

もし、そうだったらペテロは立ち上がれなかったと思います。

それは、忘れられないほど、憐れみに満ちた眼差しだったのではないかと思います。

イエス様は今日も私たちを見つめられています。

ルカ 21章

「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(21:36)

イエス様はこの世の終わりを明言されました。

そしてその兆候としてこのように言われました。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」(10,11節)

つまり、いつその日が来てもおかしくない世界に私たちは生きていることがわかります。

「神の国が近いことを知りなさい」(31節)

と言われていることを心に留めたいと思います。

私たちがすべきことはこれです。

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。」(34節)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ルカ 20章

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」(20:38)

サドカイ人は祭司を中心とした特権階級の人たちのことです。

彼らはモーセの律法(五書)以外の旧約聖書を認めず、物質世界しか認めず、復活を否定していました。

それでイエス様はあえてモーセ五書から答えられます。

モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。」(37節)

「昔アブラハムの神だった」ではなく、今も「アブラハムの神」であると今も生きているかのごとく語りました。

死が終わりではなく、死後の世界が存在し、復活があることを明確に語られました。

この世がすべてではありません。

永遠の視点をもつ必要があります。

今、いかに生きるかはとても重要です。

なぜなら、「神に対して、みなが生きているのです。」(LB)

ルカ 19章

「彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」」(19:46)

エルサレム神殿の異邦人の庭と呼ばれる場所が舞台です。

異邦人の庭は、神殿に入ることが許されていない外国人が礼拝を捧げるための場として設けられていましたが、当時この場所では神殿に捧げるものが簡単に用意できるようにと、祭司主導で商売が行われ、とても礼拝ができるような状況ではありませんでした。

「強盗」と訳された単語は、反乱者、反逆者のような意味がありますので、イエス様が言いたかったのはローマ帝国に反対する抵抗運動の象徴としてしまったと言うことだと考えられます。

外国人を排除することは神のみこころではありません。

イエス様はすべての人が神に礼拝を捧げることができるように、妨げとなるものを取り除いて下さいました。

あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:7)

ルカ 18章

「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」(18:7)

この裁判官とやもめのたとえ話は、たとえ話のゆえに大袈裟に描かれています。

裁判官の道徳的な問題に引っかかってはいけません。

たとえはたとえでしかないからです。

やもめは当時、もっともないがしろにされていた人たちです。

「まして神は」とあるように、不正な裁判官とは比べられない義なる神が、私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはないと言うことです。

ですから、どんなにないがしろにされてもあきらめずに訴え続けたやもめのように、「いつでも祈るべきで、失望してはいけない」のです。

神は私たちの祈りを聞かれるお方です。

私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業を行われるお方です。