pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

詩篇 33篇

「新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」(3節)

 私たちの社会は、常に新しいものが生み出されていきます。新製品だけではなく、春の訪れと共に、新キャベツなどが食卓に並ぶ時、私たちは新鮮さを味わいます。私たちと神様との関係も新鮮さが必要です。過去を思い起こすことも大切ですが、日々、新しい歌を覚えることに挑戦するように、刷新される必要があります。過去覚えた歌に固執することなく、新しい歌を覚えていく必要があります。過去感動した聖句に固執することなく、新たに聖書を読んでいく必要があります。過去に感銘を受けた説教に固執することなく、神様が新しく語ろうとしていることに心を開いていく必要があります。神は今生きておられ、新しい事をなさる方。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」(イザヤ43:19)

詩篇 32篇

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(8節)

神様は、私たち一人一人を愛し、気にかけ、導いてくださるお方です。LBではこう訳しています。

「神様はこう言われます。わたしはあなたを教え、最善の人生航路へと導いてあげよう。助言を与えて、一歩一歩を見守ってあげよう。」

具体的には、日々、祈りつつ聖書を開き、読む中で、神様の語りかけを体験することができます。それは、時宜にかなった「みことば」を発見することかもしれません。または、神様ご自身が、私たちの内に働かれ、願いそのものが変えられることかもしれません。もちろん、特別な方法で導かれることを体験するかもしれません。しかし、

「くつわをはめなければ言うことを聞かない、馬やらばのようになるな!」(9節LB)

とあるように、思考を停止することではありません。 

詩篇 31篇

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」(24節)

 メッセージ訳では、こう訳しています。

「勇敢であれ、強くあれ、あきらめるな。神様がすぐここに来られることを期待しなさい。」(MSG)

神様が私たちに願われていることは、人生のどんな状況でも、神様に期待して生きるということです。

「だから強くあれ、勇敢であれ、主の内にあなたの希望をおく、すべての人よ」(NLT)

と訳しているものもあります。聖書は、神様に私たちの希望をおくように語っています。

私たちはどちらかというと「最初から期待しないほうが、がっかりしなくて済むだけましだ」と考えます。しかし、それは、神様が私たちに願われている生き方とは違います。神様が自分の思い通り動くことを期待すると、確かに、失望することがあると思います。神様の思いは、私たちの思いよりも高いからです。しかし、神様は私たちを愛しておられ、私たちに最善を与えられるということを期待して生きることは、神様が願われていることです。

詩篇 30篇

「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(5節)

私たちの人生は夕暮れと朝明けの繰り返しです。順境の日があれば、逆境の日があります。LBでは、6、7節をこう訳しています。

「順境の日に、私はこう言いました。『いつまでも今のままだ。だれも私のじゃまはできない。神様が恵んでくださって、私をびくともしない山のようにしてくださった。』ところが、神様は顔をそむけて、祝福の川をからしたのです。たちまち私は意気消沈し、恐怖におじまどいました。」

私たちの人生はまさに、そのような涙と喜びの繰り返しだと思います。暑い夏がやがて終わり、収穫の秋が来るように、私たちの人生にも様々な季節があります。ヤコブは、こんなことを言っています。

「悩んでいる人がいますか。その人は、神様に祈り続けなさい。また、喜んでいる人がいたら、昼も夜も、主を賛美しなさい。」(ヤコブ5:13LB)

逆境の時は、祈り続け、順境のときは、主を賛美し続ける、この姿勢が大事です。

詩篇 29篇

「主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。」(11節)

神様は、私たちに力を与え、平安をもって祝福してくださるお方だと言います。「平安」と訳されたことばは、「シャローム」です。平和、平安という意味もありますが、「健全」とか「繁栄」という意味もあります。この29篇に出てくる様々な表現はもともと、約束の地の先住民だったカナン人の神、バアル神に用いられていたものだと言われています。それを、まことの神である主に代えて、本当に力あるのはバアルではなく、主だとしたと言われます。

救世軍の創始者、ウィリアム・ブースは、「どうして悪魔が全部いい音楽をもっているんだ」と言って、当時のポピュラー音楽を、神様を礼拝する音楽に変えたのは有名な話です。聖歌の旋律の多くは、当時のポピュラー音楽を取り入れたものでした。この世しか見えない人々に、その上に座す、主を指し示すことができますように。

詩篇 28篇

「私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。」(2節)

「手を上げる」というのは、そもそも祈りの方法でした。Ⅰテモテ2:8に、こうあります。

「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」

初期の教会の絵を見ても、祈りの絵は手を上げています。私たちが今、「手を上げる」ことと連想することは、「手を上げろ!」という「降参」のポーズだと思います。まさに、神様の前に降参して、「私はあなたが必要です!」ということが、この手を上げる意味でもあると思います。「祈りのないリバイバルはない」と言われます。「神様、あなたが必要です」と叫び求めて、手を上げる人々の上に、神様は臨まれるからです。神様は、私たちの祈りを聞かれるお方です。神様に祈るならば、希望があります。

詩篇 27篇

「「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」(14節)

13節にこうあります。

「生ける者の地で、主が良きにしてくださることを見るということを信じられなかったら、私は心を失っていただろう(落ち込んでいただろう)。」(NKJV)

「生ける者の地で」は、この世での人生においてということです。天国に行けるだけでも、十分な話ですが、神様は、今、この時、私たちが生きているこの地上においても、私たちに関わり、最善をなそうとされているという現実を信じることは、日々の生活に大きな影響を与えます。神様は私たちに、信じるか信じないかは、私たちの選択だと言います。そして、信じることを選ばなければ、私たちは落ち込んでしまうと警告します。ダビデは私たちに信じることを訴えます。

「いらだってはいけません。主を待ち望みなさい。主は必ずおいでになって、あなたを救ってくださいます。勇気を出しなさい。神様を待ち望みなさい。主はきっと救ってくださいます。」(14節LB)

詩篇 26篇

「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」(1節)

「私を弁護してください」と訳された言葉は、本来は「裁き」を意味する言葉が使われています。ですから、口語訳ではこう訳しています。「主よ、わたしをさばいてください。」この姿勢は大事だと思います。私たちは「他の人をさばいてください」と祈ることがあるかもしれませんが「わたしをさばいてください」と祈ることはないと思います。聖書は他者を裁くことを厳しく戒めています。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカ6:36,37)

指を差すと三本の指は自分に向いていることを心に留めたいと思います。自分を裁いていただく時、ただ神の恵みによって、今があることを認めざるを得ません。

詩篇 25篇

「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(9節)

 「貧しい者」というのは、文字通り、経済的なものとしてだけとらえてしまいますと、神様が本当の意味で語ろうとしている意味を失ってしまうと思います。聖書が言いたいのは、神様に望みを置く以外、どうしようもない状況にある人と言う意味です。「神様がどうしても必要」という人に、神様がご自身の道を教え、導いてくださるということです。アルゼンチンで起きたリバイバルはいい例だと思います。インフレでお金の価値がなくなり、人々は銀行に信頼することもできなくなりました。仕事もなくなり、企業にも、信頼することはできなくなりました。汚職ばかりで政治にも信頼することができなくなりました。ただ、神様に求める以外どうしようもないという状況の中で、アルゼンチンにリバイバルが起きたのです。神様は、「神様に求める以外どうしようもない」という飢え乾きがあるところに臨んでくださいます。

詩篇 24篇

「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」(9節)

  ダビデは、神の臨在を象徴する契約の箱が、エルサレム神殿に入ってくることを意識して、この詩を書いたと思われます。しかし、これはまた預言的な意味を含んでいると思われます。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたことを、預言していたのだと思われます。さらに、聖書の一番最後のところで、イエス・キリストはこう言われました。

「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

イエス・キリストは再び、この地に来られると約束されました。メッセージという訳では今日の箇所をこう訳しています。

「目を覚ませ、寝ぼけている町よ。目を覚ませ、寝ぼけている人々よ。栄光の王が入ってくる準備は整った。」

その日は遠くはありません。

「主よ、いつ、あなたが戻って来られてもいいように、いい緊張感をもって過ごせますように。」