pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 33章

 「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」(24節)

ここで言われている「そこ」とは、「神の国」、「天の御国」のことだと思われます。私たちはこの世に生きている限り病気をします。どんなに癒されても、やはり病気をし、死に直面します。そして、病気をするたびに、自分は神ではなく、有限な人間であるということを痛いほど教えられ、謙虚にさせられます。完全な人などこの世には存在しません。しかし、神様はこうおっしゃられました。

「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出15:26)

神様は、私たちをいやしてくださるいやし主です。神の国はすでに来ているので、病気はいやされます。しかし、まだ完全ではありません。ですから、死の後の生の後、天の御国で、私たちはみな完全にいやされた状態で永遠に生きます。

「主よ、あなたがいやし主であることを感謝します。」

イザヤ 32章

「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(15節)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「しかし、やがては天から御霊が注がれ、再び見渡す限りの黄金の穂波が見られるようになります。」

聖霊なる神様が臨まれることによって、変化が起こるという世界があります。日頃のコツコツとした積み重ねが大切なことは当然ですが、聖霊が臨まれるという神の領域があることを認識することも大切なことです。そして私たちは、自分の能力ではなく、神に希望を抱いて生きることができるのです。メッセージではこう訳しています。

「そうです。泣くのも悲しむのも上から私たちに聖霊が注がれるまでです。」

私たちの涙が喜びに、悲しみが踊りに変えられる神様の時があります。その日を待ち望みつつ、今を生きることができますように。

イザヤ 31章

 「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」(1節)

 私たちは目に見えるものに弱い傾向があります。目に見えない神を求めるよりも、目に見える何かに拠り頼む方が確実に思えてしまうのです。しかし、3節で神様はこうおっしゃられます。

「エジプト人はただの人間で、神ではありません。その馬は取るに足らぬ動物で、どんなものでも蹴散らす霊ではありません。神様がこぶしを振り上げると彼らはつまずき、助けるはずだった人たちの間で倒れ、どちらも滅んでしまいます。」(LB)

私たちは、まず、神を求める必要があります。公民権運動で有名なキング牧師がこんなことを言っています。

「日々が暗くなり、夜が寂しくなろうとも、上で支配している神がおられることを理解してほしい。」

イザヤ 29章

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(16節)

現代訳では今日の箇所をこのように訳してます。

「考え方が倒錯しているではないか。陶器を造る者は、陶器の材料である土と同等か。造られた者が造る者に向かって、『あなたが私を造ったのではない』とか、『あなたは何も分っていない』と言えようか。」

この箇所は、まさに私たちが創造主なる神様に対してどのように考えるべきかを明確にしてくれる箇所だと思います。私たちも倒錯して、創造主なる神様に対して、「神様は何も分っていない」などと言っていることがあるのではないでしょうか。創造主なる神様はすべてをご存じであり、しかも、私たちを愛しておられます。私たちは神の指紋がついた、神の作品であることを忘れることがありませんように。

イザヤ 28章

 「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16節)

今日の箇所は、新約聖書で引用されています。

「聖書にこう書いてあります。『見よ。わたしは一つの石(キリスト)を(教会の)尊い土台石とするために選び、遣わした。彼に信頼する者は、決して失望しない。』キリストは、信じる者にとっては何よりも尊い方ですが、キリストを拒む者にとっては、『つまずきの石、妨げの岩』となりました。・・・彼らのつまずきの原因は、神のことばに耳を傾けず、従おうとしないことです」(Ⅰペテロ2:6‐8)

「試みを経た石」とは、何度も試みを受けた石で、信頼できるという意味です。イエス・キリストが信頼できる石であるということは、歴史を通じて、証明されてきたことでもあります。

イザヤ 26章

 「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこし えの岩だから。」(4節)

信仰とは一時のものではなく、人生を通して持ち続ける、継続的なものです。ですからLBでは、このように訳しています。

「どんな時でも、神様である主に信頼しなさい。いつまでも尽きない力がいただけるのは、主からだけです。」

前節にはこのように記されています。

 「志の堅固なものを、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

「全き平安」と訳された言葉は、 「シャローム、シャローム」です。最上級の平安という意味です。「ヤハ」は「ヤハウェ」、神様の名前で す。どんな時でも神様を信頼して生きていくならば、尽きない力、最上級の平安の中に生きることができるという約束です。このことを使徒パ ウロは次のように表現しています。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)

イザヤ 24章

「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」(23節)

 イザヤは、やがてヤハウェなる神ご自身が支配するために来られると預言しました。

「シオンの山、エルサレムで王となり」

というのは、ダビデの王国の完成を意味します。神ご自身が王となり、その民を牧されると。イエス・キリストは、エルサレムで十字架にかかられました。そしてその十字架の上には、「ユダヤ人の王」と刻まれました。誰が想像したでしょうか。神は、そのひとり子を与えることによって王となられました。子なる神、イエス・キリストは、すべての人の罪のために死ぬことによって王となられました。LBでは23節をこのように訳しています。

「ついに天の軍勢の主はシオンの御座にのぼり、イスラエルの長老たちの見ている前で、エルサレムを中心に世を治めます。その栄光は、太陽の輝きも月のうるわしさも、色あせてしまうほどです。」

イザヤ 23章

「万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」(9節)

 ツロが滅んだ理由を聖書はこう言っています。

「ほかでもない天の軍勢の主が、その思い上がりをたたきのめし、人間の偉大さなど物の数ではないことを示そうと、このようにしたのです。」(LB)

ヤコブ4:6にも、こうあります。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

傲慢(高ぶり)は、主が忌み嫌うものだと聖書は私たちに伝えます。箴言の16:18にも、こうあります。

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」

LBでは、こう訳しています。

「プライドが高すぎると身を滅ぼし、なまいきなことばかりしていると失敗します。」

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:6)

今日は主の日。へりくだり主に礼拝を捧げましょう!

イザヤ 22章

 「さあ、宮廷をつ かさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあ なたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。」(15、16節)

 執事シェブナとは、ヒゼキヤ王の時代に宮廷を管理していた人物です。神様の怒りに対して悔い改めることを せず、宮廷の管理者と言う立場にありながらただ自分の楽しみのために日々を過ごしていた様子が記されています。そして、シェブナが危機感 を持つこともなく自分のためにエルサレムの墓群のなかでも一等地に自らの墓を用意したことに対して、神様は厳しく語っています。興味深い ことにごく最近、シェブナのものと思われる墓が発見されました。私たちの心の中にも、時々シェブナが存在します。他者に対して心を向ける ことは大切です。

イザヤ 21章

 「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」(11、12節)

 エドムの人々は、イザヤのところに、アッシリヤの脅威はいつまでかと尋ねにやってきました。イザヤは、エドムの人々に、本当に知りたければ、心からもう一度尋ねに来るように言いました。神様は、今も同じようにされることがあります。鎮痛剤程度に神を求めてきても、神様は、その人が心から求めに来るまで答えを待たれることがあります。聖書は言います。

「神様のもとに来ようとする人はだれでも、神様の存在と、熱心に神様を求めれば必ず報いられることとを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

「主よ、あなたを心から求めます。あなたが必要です。」