pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

エレミヤ 9章

「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げ。―」(24節)

岩波訳では、前の節と合わせて短い箴言風の断片としてこの箇所を紹介しています。

「誇らないように、知恵ある者は自分の知恵を。誇らないように、強い者は自分の強さを。誇らないように、富む者は自分の富を。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。まことに、わたしこそヤハウェ、地に、恵みと公正と正義を行なう者。まことに、これらのことをわたしは喜ぶ。‐ヤハウェの御告げ‐。」

いつの時代でも人間は、自分の「知恵」「強さ」「富」を誇る傾向があります。マクスウェルはこう言います。

「『優越感・うぬぼれ』は成長を止める。『自分を賢いと思い込む人は、馬鹿者より望みがない』」

使徒パウロはこのように言っています。

「『誇りたい者は、主のなさったことを誇れ。自分を誇るな』と旧約聖書にあるとおりです。」(Ⅱコリント一〇・一七LB)

エレミヤ8章

「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(11節)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「彼らは、実際には平安などどこにもないのに、すべてがうまくいくと保証する。こうして、わたしの国民のひどい傷に、効き目のない薬を塗っている。」

私たちの時代の問題の一つは、まさに、手軽ないやし、効き目のない薬を塗っているということだと思います。一人一人が神様に心を注いで祈り求めることよりも、手軽なレシピを提供しようとします。聖書を開いて神のみことばを待ち望むよりも、手軽な助言を与えようとしてしまいます。本当のいやし、効き目のある薬は、イエス・キリストとの直接的な関係から流れてきます。

「イエス様、あなたが必要です。あなたの本当のいやしを与えてください。」

エレミヤ 7章

「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。」(4節)

神様は

「偽りのことばを信頼してはならない」

と言います。当時のエルサレムの人々は神殿がエルサレムにあるから大丈夫と思っていました。しかし、それは偽りのことばを信頼していると言います。どんなにエルサレムに神殿があっても、神を神として、神のみことばに聞く姿勢がなければ滅びると言います。聖書における神殿とは、天と地が交わる場所です。それはつまり、天の領域を、この地にもたらせるという意味があります。それで、次節以下にこう続きます。
「次の条件を満たした時にだけ、ここにいることができる。悪い思いと行いを捨て、人には公平であり、みなしご、やもめ、それに外国人を食い物にしないこと。人殺しをやめること。今のように、偶像を拝んで自分を傷つけるような、ばかなまねはしないこと。」(5,6節LB)

エレミヤ 6章

「エルサレムよ。戒めを受けよ。さもないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを住む人もない荒れ果てた地とする。」(8節)

LBではこう訳しています。

「エルサレムよ、これが最後の警告だ。わたしの言うことを聞かないと、この町にだれも住まないようにする。」

神様のことばに耳を傾けないということは致命的です。神は恵み深いお方ですが、義なる神であり、恐れられるべきお方です。私たちはそれほどの意識をもって神のみことばである聖書に向かう必要があります。実際、神様の言うことを聞かなかったエルサレムは、バビロン帝国に滅ぼされてしまいます。しかし、すべてを失った後にも、神のあわれみは尽きませんでした。エレミヤはエルサレムが陥落した後に、このように歌っています。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3:22)今日は主の日。聖なる恐れをもって主を礼拝しましょう。
> 感謝礼拝

 今日は一年に一度の感謝礼拝の日です。アメリカのサンクス・ギビング・デイは、テーブルを囲んで感謝なことを言う習慣があります。いざ、感謝なことを言うように言われると、なかなか出てこないということはないでしょうか。▼妻の晶子さんの所属しているリラの新しいCD「めぐみのしずく」(いのちのことば社)が今月発売されました。アルバムに収録されている最後の曲、「主に感謝せよ」に関して、作詞者の塚田先生がこんなコメントを寄せています。▼昨年、父が48年の牧会の働きを引退し、母と新しい歩みに踏み出しました。その最後の月に教会に掲げられていたみことばが、詩篇136:1でした。『主に感謝せよ』というみことばを、喜びも困難もたくさんあったその歩みをしめくくるものとして選んだことに、思いを馳せました。どんな人生の歩みになろうとも、『主に感謝しよう』という生涯をまっとうできますように。▼来週の第二礼拝は、リラのメンバーの方々が来られ、特別賛美をしていただく予定です。第二のメッセージは、塚田先生にしていただく予定です。神様のめぐみを感謝します。

エレミヤ 5章

「あなたがたの咎が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ。」(25節)

 神様は私たちに良いものを与えたいと願っておられますが、罪がそれを妨げると言います。罪というのは、「的外れ」という意味がありますが、神様を無視して生きている人生は、まさに「的外れ」ということになります。自分の問題を棚上げして、「神様が自分の願いをかなえてくれない」と言うのは、まさに「的外れ」と言えます。私たちは神様に文句を言う前に、自分自身を調べることも大切なことです。詩人もこう言っています。

「ああ神様。私の心を探り、その内面を調べ上げてください。もし、あなたを悲しませるようなものがあるなら、教えてください。そうして、永遠のいのちへの道からそれないようにお導きください。」(詩篇139:23,24LB)

「十字架の御業を感謝します。」

エレミヤ 4章

「まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。」(3節)

LBでは、

「固くなったおまえたちの心を耕せ」

と訳しています。

ユージーン・ピーターソンという神学者は、この「耕せ」というのは、神のみことばを私たちが受けとるために私たちの心を悔い改めることによって整えることを表していると言います。神のみことばを受け取るためには、確かに、謙遜になる必要があります。自分の考え、自分の思い、自分のやり方で頭がいっぱいであるならば、神のみ言葉の種は、私たちの心に入る余地がありません。私たちは常に神のみことばが心に入りやすいように、心を整える必要があります。神を神として認め、聖書のみことばを神のみことばとして認め、謙遜に、聖霊なる神様にみことばを与えてくださるように、祈り求めるという姿勢が大事です。

エレミヤ 3章

「行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。―主の御告げ。―わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。―主の御告げ。―わたしは、いつまでも怒ってはいない。」(12節)

 北イスラエル王国に対する神様のみことばは厳しいものではありますが、深いあわれみもまた含まれています。北イスラエルの神様に対する愚行はひどいものでしたが、神様はその怒りを恵みへと変えることをここで語っておられます。ただ、その次の節に私たちは目を留めなければなりません。それは、

「ただ、罪を認めよ。」(LB)。

私たちは、自分の罪の値が計ることができないほど高いものであったことを、イエス様の十字架を通して覚える必要があります。神様の深いあわれみの中で、イエス様の十字架の贖いによって赦されます。しかし、その罪の重さを感じなければ、赦されたことの素晴らしさはわかりません。

エレミヤ 2章

「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」(32節)

 わたしたちは時々、自分が何に時間とお金をかけているかということを見なおす時が必要だと思います。なぜならそのことが、わたしたちの現在の優先していることを知る鍵になるからです。神様は、私たちに世捨て人のような生活をするように強制しているわけではありません。詩篇の中にも、

「これは、主が創られた日である。この日を喜び、楽しもう。」

と言う箇所があるくらいですから。しかし、今日のみことばにあるように、私たちが日々の歩みの中で本質、つまり神様に生かされ、この日が与えられた日であるということを忘れてしまうならば、それこそが「神様を忘れた日」としてカウントされるのではないでしょうか。主は言われます。

「どうして、こんなにも簡単に神を捨てることができるのか。」(LB)

イザヤ 66章

 
「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。―主の御告げ。―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(2節)

神様が目を留められるのは、傲慢で強い人ではなく『へりくだって心砕かれた人』である、とこの箇所は語っています。なぜなら傲慢な人は神様が必要ではないと思っているからです。この箇所にもあるように、いま私たちに与えられているすべてのものは本来神様からの無償の贈り物です。水も、空気も、土地も、草花も食物も。家族や友人もそうです。それなのに私たちはその方を無視し、すでに「ある」ものからの加工品を造り、あたかも自分ですべてを作り出したかのような顔をしています。すべてを与えてくださっている方を、必要ないと無視して生きていないでしょうか。生かされていることを、まず感謝する一日でありますように。

イザヤ 65章

「わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。」(2節)

「自分の思いに従ってよくない道を歩む者たち」

とは、まさにイエス様を信じ心に受け入れる前の私たちの姿であると思います。LBでは、

「自分の思い通りに悪の道を歩き続けている」

と訳していますが、現代風に言うならば、『自分に正直に生きる』という考え方に通じると思います。聖書はこの考え方を否定しています。誰かを傷つけても、自分の思いを満たそうとすることは、決して良いことではありません。私たちは自分の思いが必ずしもベストではないことを謙遜に受け止め、神様に知恵をいただきながら歩む必要があると思います。このような罪の中に沈んでいた私たちに、神様は忍耐をもって『一日中手を差し伸べてくださるお方』です。

今日は主の日です。憐れみ深い主の御手が差し伸べられていることを認め、感謝をもって礼拝を捧げましょう!