pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

エゼキエル 37章

「そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」」(9節)

骨は完全な死を表わします。完全な死を、神は『生』に変えることができる絶対的な力と権威をもっておられます。私たちの人生が『死』のように感じ、たとえ誰もどうすることのできないような状況に置かれたとしても、神はそこから命を造り出すことのできる全能なるお方です。ここで言う『息』とは、14節にあるように、『神の霊』、『聖霊なる神』のことです。「その息に言え」と神が言われるように、私たちは聖霊なる神に「吹きつけてください」、「満たしてください」と、祈り求める必要があります。イエス・キリストも言われました。

「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)

エゼキエル 36章

「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。」(8節)

 預言者は言います。「イスラエルには、良い時代が戻ってくる。」(8節LB)
なぜならば、

「わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。」(9節)

と神が言われるからです。イスラエルの国にとって一番大切なことは、神の臨在でした。神の臨在のある所では、土地は耕され、種が蒔かれ、人は増え、廃墟は建て直されます。ですから神は言われます。

「以前にもまさって、おまえたちを栄えさせる。その時おまえたちは、わたしが神であることを知る。」(11節LB)

神の臨在の中で、その結果、神が与える祝福の中で、私たちは神を体験します。バビロンに捕囚された身であったエゼキエルにとって、これは夢のような話でした。しかし、神に不可能はありません。これが、現実となりました。

エゼキエル 35章

「おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。」(5節)
 
セイル山に住んでいた人々とは、すなわちエサウの子孫、エドム人のことだと考えられます。彼らは、イスラエルの民がエジプトから約束の地に向かう途中でもその道をさえぎり、数々の嫌がらせを行いました。この箇所にも記されているように、イスラエルを憎み続けたのです。それは世代が代わってもなお受け継がれてゆき、ついにはバビロンが南ユダ王国を攻撃した際、その混乱に乗じて多くの痛みをもたらした民族でもありました。彼らの動機は、憎しみ、敵意であり、彼らは徹底的にイスラエル人を苦しめました。結局、彼らの憎しみは、憎む相手だけではなく、自分自身にも破壊をもたらしました。神様は私たちがいつまでも敵意を抱くことはやめなさいと言われます。(エペソ4:26,27参照)

今日は主の日。十字架によって敵意を廃棄されたイエス(同2:15)を礼拝しましょう。

エゼキエル 34章

「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。―神である主の御告げ。―」(31節)

神が私たちの本当の羊飼いだと聖書は言います。詩篇23:1に、
「主は私の羊飼いですから、必要なものはみな与えてくださいます。」(LB)
とありますが、神が自分の羊飼いなら、私たちに欠けることは何もありません。しかし、自分の羊飼いが人であるならば、話は別です。この章ではイスラエルの指導者たちに対する裁きが語られています。指導者を裁くのは、人ではなく、神であることが分かります。もっとも、神は全能ですが人は違います。神は遍在されますが人は違います。人は神のように対応することはできません。神に期待すべきことを、人に期待するなら、がっかりしてしまうことは明らかです。私たちが期待すべき、まことの羊飼いはイエス・キリストであることを心に留めたいと思います。

エゼキエル 33章

「あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」(9節)

「伝える責任」があると聖書は言います。伝えられたことにどう反応するかは、その人次第ですが、伝える責任は、伝える側にあると言います。私たちは自分たちの力で人を救うことはできません。しかし、伝えることはできます。もちろん、「ただ伝えればいい」という姿勢は正しくないと思います。相手に伝わるように、工夫して伝える努力はすべきだと思います。ですから教会は、あらゆる努力をして何とか福音を一人でも多くの人に伝えようと努めます。直接伝える方法もあれば、橋渡しをするような前伝道もあります。いずれにせよ、キリストの福音を伝えることは、教会の使命です。「人々にイエス・キリストを指し示すことによって、神に栄光を帰す」ことができますように。

エゼキエル 32章

「そこには、エドムとその王たち、そのすべての族長たちがいる。彼らは勇敢であったが、剣で刺し殺された者たちとともに、割礼を受けていない者たち、および穴に下る者たちとともに横たわる。」(29節)

この世の富、地位や名誉も、この世の人生を終えたらまったく関係ありません。永遠のいのちは、どんなに財産があっても、地位や名誉があっても、買うことはできません。現在、博物館に置いてあるミイラを見るときに、皮肉を感じさせられます。ミイラにしてもらいたかった人々は、その富と地位と名誉のゆえに、永遠のいのちを求めてミイラにしてもらったのに、今では、その亡骸は、後世の人々の見世物になっているのです。しかも彼らの霊魂は、彼らの地位を主張できるようなところにはありません。真の「割礼」とは、外見上の意味ではなく、神様との契約関係があるということを意味しています。つまり、キリストを信じているならば、確実に天国に行けるということです。

エゼキエル 31章

「エデンの木のうち、その栄えと偉大さで、あなたはどれに似ているだろうか。あなたもエデンの木とともに地下の国に落とされ、剣で刺し殺された者とともに、割礼を受けていない者たちの間に横たわるようになる。これは、パロと、そのすべての大軍のことである。―神である主の御告げ。―」(18節)

神様はエジプトに、アッシリヤ帝国に何が起こったか、そこから学ぶように言います。栄華を極めたアッシリヤ帝国を神様が落とされたことを思い起こさせ、アッシリヤと自分は違うとどうして言えるのかと問います。私たちも歴史から学ぶことはとても大切です。歴史を通じて、神様がどのように国々に働かれたか、私たちは学ぶ必要があります。基本的には箴言14:34にこうあります。
「だれもが神様を恐れ、正しく生きれば国はよくなり、罪がはびこると国民は恥をかきます。」(LB)

エゼキエル 29章

「神である主はこう仰せられる。エジプトの王パロよ。わたしはあなたに立ち向かう。あなたは、自分の川の中に横たわる大きなわにで、『川は私のもの。私がこれを造った。』と言っている。」(3節)

 エジプトにとっての川は、ナイル川を指しています。エジプトはナイル川を中心に発展した地ですが、別に、エジプトの国がナイル川を造ったわけではありません。創造主なる神が、ナイル川も造られたのです。このエジプトの傲慢さのゆえに、神の裁きがくだるという預言がこの29章で語られている内容です。私たちも気をつけないと同じ間違いを犯すことがあるのではないでしょうか。よくよく考えて見ますと、神様の恵みのゆえに今があるのにも関わらず、すべてを自分の功績にしてしまっていることはないでしょうか。神様の前にへりくだり、神の驚くばかりの恵みを賛美しようではありませんか。今あるは神の恵みです。

 

エゼキエル 28章

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(2節)

神は神であり、人は人です。人は神になることはできません。アダムとエバの罪と言うのは、神になろうと思い上がったことでした。サタンと呼ばれる悪魔もまた、いわゆる天使の一人でしたが、神になろうと思い上がって落とされました。この箇所で、ツロの王に対する預言が、11節からサタンに対する預言に変わります。
「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」(17節)
人が高ぶって自分を神のようにみなすことは、まさに、サタンに騙されている状態だと言えます。
今日は主の日。主に礼拝と賛美を捧げることは、神を神として認めることです。

エゼキエル 27章

「あなたはツロに言え。海の出入口に住み、多くの島々の民と取り引きをする者よ。神である主はこう仰せられる。ツロよ。『私は全く美しい。』とおまえは言った。」(3節)

ツロは、パレスチナ北部の地中海沿岸にあった古い商業都市国家でした。LBはこう訳しています。
「ああ、世界貿易の中心地、強大な港町よ。神様のお告げを聞きなさい。おまえは『世界でいちばん美しい町だ』と自慢している。」
ツロの問題は傲慢でした。神様は傲慢な者をしりぞけられるお方です。ですから、聖書にはっきりとこう記されています。
「みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。」(Ⅰペテロ5:5,6口語訳)

「主よ、どうかいつもあなたの御手の下で、自分を低くすることができますように。」