pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ヨシュア 15章

「彼女は言った。『私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。』そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」(19節)

カレブの娘アクサは、結婚の祝いとして、水の泉を求めました。彼女は、そこで生活するには、何よりも水が必要であることをよく理解していたのだと思います。そして、彼女は求めたものを得ました。私たちもこの世で生きていくためにはいのちの泉が必要です。私たちもアクサがカレブに求めたように、父なる神にいのちの泉を求めることが大事だと思います。イエス様はおっしゃられました。

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。・・・天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9,13)

「天のお父様、私たちがこの地で生きていくために、いのちの泉、聖霊なる神様で私を満たしてください。」

ヨシュア 14章

「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(10,11節)

十代の学生が、「もう若くない」と言ったりして覇気がないのは、悲劇を超えて、喜劇の世界だと思います。カレブは85歳になっても元気だと言いました。聖書は言います。

「若い人もくたくたになり、若い男もまいってしまいます。しかし神様を待ち望む者は、新しい力がみなぎり、わしのように翼を張って舞い上がります。いくら走っても疲れず、どんなに歩いても息切れしません。」(40:30,31LB)

主を待ち望む者は何歳になっても、息切れすることなく、明るく、元気で、のびのびと主に仕えます。

ヨシュア 13章

「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(1節)

ヨシュアはこの時、90余才であったと言われます。しかし、神は彼の働きはまだ終わっていないと言いました。チャック・スミス師は、

「神は私たちの引退は天国であって、この地上ではないと言われる」

と言い、天に召されるその週まで講壇に立ち続けられました。私たちがどんなに歳を重ねても、霊的に成長して、神の約束の地を所有し続けることができます。(「占領すべき地」は、「所有すべき地」と訳すことができます。)ノーマン・ビンセント・ピール師は、

「学ぶのをやめたら、死んだも同じだ」

と言って、95歳で召されるまで、学び続けたそうです。自分で限界を設けずに主の働きに生きていくことができますように。

ヨシュア 12章

「エリコの王ひとり。ベテルのそばのアイの王ひとり。」(9節)

9節から24節まで、当時の都市国家の31人の王が連記されています。彼らは当時の有名人たち(セレブ)ですが、名前は記録されていません。当時の人々には知られていたと思われますが、この世の名声はやがて消えていくということだと思います。当時、栄えていたと考えられるエリコの町も、アイの町も、今はもうその栄華は残っていません。聖書は言います。

「「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(Ⅰペテロ1:24,25)

リック・ウォーレン師は、永遠の世界に入る前に、神は二つの質問をすると言います。一つは、

「イエス・キリストに対してどのような態度をとったか?」

もう一つは、

「わたしがあなたに与えたものを、どう活用したか?」

ヨシュア 11章

「そこで、ヨシュアは戦う民をみな率いて、メロムの水のあたりで、彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。」(7節)

服部嘉明先生は、この記述の背後には、

「神がご自身の戦いとして導いてくださることを確信しながら、神与の使命を行うためにはヨシュアとイスラエルの民は彼らの人間としての現実の努力を怠らなかったことを見逃してはならない。今までもそうであったが、そのようなヨシュアとその民の姿勢に全能全知の神を信頼して歩む生活は、単なる精神主義ではないこと、すなわち、現実における人間的努力をする責任・義務が求められていることを私たちも学び取らなければならない。」

と言います。神が成し遂げてくださるという側面と、神を信頼するがゆえに行う私たちの側の努力の両面を心に留めたいと思います。

「神様、私たちが両極端に走ることなく、あなたのみこころの真中を歩むことができるように助けて下さい。」

ヨシュア 10章

「主はヨシュアに仰せられた。『彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。』」(8節)

この時点までヨシュアたちは一つの町ずつしか相手にしていませんでした。しかし、今度は五つの町を相手にしなければなりませんでした。ヨシュアたちにとって、それは大きなチャレンジだったと思います。そんなヨシュアのもとに神様は来られて言いました。

「恐れることはない。すでに打ち負かしたも同然だ。・・・一人としておまえに立ち向かえる者はいない。」(LB)

試練や戦いに立ち向かっていく前に、神のみ約束を聴くことは重要なことです。神のみ約束を聴く時に、私たちは未来に対して大胆になることができます。私たちの未来を神はご存知です。イエス様は私たちと共にいて、私たちに勝利を与えてくださると約束してくださっています。

今日は主の日。共に、主の御言葉を聞き、礼拝を捧げましょう!

ヨシュア 9章

「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。」(14節)

イスラエルの人々は、祈って神の指示を仰がなかったがゆえに失敗を犯してしまいます。私たちもイスラエルの人々と同じように失敗することがあるのではないでしょうか。自分の目には明らかだと思って、祈らずに決断してしまったことが、大変な結果を生み出すことがあります。ですから、まず祈り、神のみ声を聞いて、神のおっしゃられるとおりに実行する必要があります。もちろん、祈って実行したら、問題が起こらない保証があるわけではありません。しかし、祈って祈って神の指示に従ったのなら、神がその結果に責任をとってくださいます。ですから、決断をする時は特に、祈って、祈って、みことばに耳を傾けて、主の指示を仰ぐ必要があります。
「主よ、あなたの指示を仰ぎます。お語りください。」

ヨシュア 8章

「主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」(1節)

イスラエルの人々ははじめ、自分たちのやり方でアイを攻め、敗北しました。今回は、神のやり方でアイを攻め、彼らは勝利を体験しました。私たちも日々の生活の中で、二通りのやり方があることに気がつきます。「自分のやり方」と「神のやり方」です。「自分のやり方」というのは最終的には敗北を体験させられます。しかし、「神のやり方」はいつも、最終的には勝利をもたらします。そのことを知っていても、私たちは「自分のやり方」をしたいと思ってしまう傾向があります。ですから、「神のやり方」を求めて日々祈り、みことばに聞くことを優先する必要があります。
「主よ、自分のやり方に固執しやすい自分を助けてください。あなたのやり方を示し、導いてください。」

ヨシュア 7章

「彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。『民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。』そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。」(3,4節)

エリコの町で大勝利を収めたイスラエルの人々は驕り高ぶっていました。彼らは神の方法で勝利を得ることができたことを忘れ、祈ることもなく戦いに行き、屈辱的な負け方をしてしまいました。私たちは常に二つの真理を心に刻む必要があります。

「私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

「わたし(キリスト)を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

「主よ、勝利はただあなたから来ます。傲慢になることがありませんように。」

ヨシュア 6章

「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」(3,4節)

エリコの人々にとってイスラエルの人々はとても滑稽に見えたと思います。イスラエルの人々は戦いのために準備するどころか、ただ城壁の周りを行進するだけだったからです。イスラエルの人々も、自分たちが何をしているのか理解できなかったと思います。しかし神は言われました。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。」(イザヤ55:8)

神の方法を理解することはできませんが、信仰によって従っていく時、私たちは神の栄光を見ます。
「主よ、たとえ理解できなくても、あなたに従順できますように。」