pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

マルコ8:14-9:1

「するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」」(8:29)

周囲の人が何と言っているかよりも、私たち自身がイエス・キリストを誰だと考えているかが重要です。ある十代の少年が小さな教会に入ると、牧師がこう言いました。

「青年よ、君は悩んでいます。君はキリストを見上げない限り、その苦悩から逃れることは決してできません。仰ぎ望め、仰ぎ望め、ただ仰ぎ望むのです。」

その時、この少年はあたかも電気に打たれたかのように感動しました。イエス・キリストを仰ぎ望むことにすべての答えがあることが分かったからです。彼はやがてイギリスを代表する牧師になりました。彼の名はチャールズ・ハドン・スポルジョン。説教者のプリンスと呼ばれます。

今日は主の日。共に、主を仰ぎ見、主に礼拝を捧げましょう!

マルコ7:31-8:13

「そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。」(7:34)

「エパタ」はアラム語です。ちょうど、現代の教会でも、「アーメン」、「ハレルヤ」、「ホザナ」と言った、ヘブル語がそのまま使用されているように、初代教会では、一般的に、「エパタ」という言葉が使用されていたのだと思われます。「エパタ」、「開け!」と、宣言して祈っていたのだと思います。この「開け!」という単語、原文は、命令形ですが受動態になっています。つまり、正確には、「開かれなさい!」です。神的受動態(divine passive)と呼ばれますが、主語は、「神」です。つまり、「人にはできないことも神にはできる」という信仰をもって、初代教会の人たちは、「エパタ!」、「開かれなさい!」と祈っていたということです。私たちも主に期待して、信仰の宣言をしていこうではないでしょうか。

マルコ 7:1-30

「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」(7:19)

新共同訳聖書は、聖書の続編を聖書の中に入れました。しかし、聖書の続編は正典として認められていません。それは、イエス様の教えに反しているからです。
続編のマカバイ記にこう記されています。

「だがイスラエル人の多くはそれにも屈せず、断固として不浄なものを口にしなかった。彼らは、食物によって身を汚して聖なる契約に背くよりは、死を選んでいった。」(1:62,63)

当時のユダヤ人たちは、食物によって、その身は汚されると考えていました。ユダヤ人の英雄は、穢れるという理由で食べることを拒否し殉教しました。人々が英雄視していた人たちが間違った理由のゆえに殉教していたことを指摘する時には細心の注意が必要です。それでイエス様は弟子たちにだけにひっそり説明しました。続編で大事なこととして記述されていた食物規定をイエス様は覆しました。続編は神のことばではありません。

マルコ6:30-56

「そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。」(31節)

最近、日本のキリスト教界で頻繁にQTという言葉を聞くようになりました。QTの意味をリビングライフはこのように解説しています。

「Quiet Timeの略字で、毎日、静かな時間と場所を定めて、神と個人的に出会い、聖書のみことばを通して、自分への神の御声を聴き、黙想し、生活に適用することにより、生き方への変化と成熟をなそうとする敬虔訓練です。」

具体的には、定期的に、聖書を読み、黙想し、祈ることです。私たちは、静まって、このような生ける神との親密な時間をとる必要があります。もちろん、聖書を読んでる中で、いつも、生活に適用できる内容を読み取ることができるとは限りません。しかし、神と個人的に出会う時間を確保することは大切なことです。

マルコ6:6-29

「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」(6:12,13)

弟子たちは「悔い改めを説き広め」ました。「悔い改め」とは、自分の過ちを悪かったと悔いるだけの話ではありません。その人の態度、考え方を変えることを意味します。つまり自分の価値観を、神の国の価値観に変えることを弟子たちは説き広めました。神がもたらされる新しい働き、神の国の現れには、自然の法則を超えた、超自然の世界があります。私たちはイエス・キリストのみ名によって、悪霊を追い出し、病人を癒すことができます。「大ぜいの病人に油を塗って」とありますように、神は私たちができるだけ多くの病人のためにいやしを祈ることを願っています。もちろん、病人をいやすのは神の役割です。私たちの役割は、祈ることです。

マルコ5:21-6:6

「イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」」(6:4)

イエス様の兄弟たちは、皆、イエス様を信じていませんでした。しかし、後に、彼らは皆、初代教会において中心的な役割を担う者となっていきます。私たちは、神がこの時代のこの世界で何を行われているかという大きな視野と、個人個人に働かれている小さな視野の両方が必要だと思います。イエス様の兄弟のヤコブも、最初は福音に反対していましたが、神の恵みによって、信仰と祈りの人となりました。彼こそ、後に、エルサレム教会の牧師となり、新約聖書のヤコブの手紙を書いた人です。神様は、世界全体にも働かれていますし、私たち一人一人の人生にも働かれているお方です。私たちは、目に見える現実に縛られずに、信仰の目を上げていく必要があります。

マルコ4:30-5:20

「イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」」(4:40)

イエス様は、イエス様がそこにおられるのにも関わらず、恐れる弟子たちに言いました。

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

イエス様は、

「これだけ、神の御国の現れを体験していて、まだ、信じられないのですか?信頼できないのですか?」

と弟子たちに問うたのです。イエス様が乗っていても、嵐が起こりました。残念ながら、キリストと共にある人生に、波風が立たないとは、聖書は約束しません。しかし、イエス様がされたように、どんな嵐の中でも、父なる神の臨在の中で、安心して、枕をすることができます。なぜならば、神はどんな嵐をも静めることができる、すべてを治めておられるお方だからです。イエス様が弟子たちの問いかけに応じられたという意味は、私たちのことを思われているということ以外の何ものでもありません。

マルコ3:31-4:29

「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」(4:27)

今日の箇所を直訳すると、

「寝て、起きて、夜で、朝で、種は芽を出し、成長する、どのようにしてかは、彼は分からない。」

となります。ユダヤ人の一日は、日没から始まります。ですから、起きる前に寝ます。朝の前に夜なのです。朝の前に夜が来るように、誰の人生にもマイナスに見える出来事は必ず起こります。しかし、それは悲劇の始まりではなく、神の御業の始まりです。マイナスは必ずプラスになります。どのように成長するかは分かりません。どのようにプラスになるかは分かりません。しかし、神はすべてのことを働かせて益として下さる神です。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マルコ2:18-3:30

「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(3:14,15)

悪霊問題は人間としてあるべき生き方ができなくなるところにあります。ですから「悪霊を追い出す権威」とは、

「人間らしさの回復」

をもたらす権威です。「福音」は「神の御国」によって「人間らしさの回復」をもたらします。人はあたかも「自分が神」かのようにふるまうことによって、「人間らしさ」を失いました。ですから、人間性、「神のかたち」を回復できるように、イエス・キリストは私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。今、誰でもイエス・キリストを信じることによって人間らしさを回復することができます。弟子たちに、そして今、信じる者たちに与えられた権威は、キリストの十字架によって完成するこの「神の国」の権威です。

マルコ1:29-2:17

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」」(1:41)

「わたしの心だ」

と訳された単語は、

「みこころ」

とも訳される単語です。

神のみこころは病気がいやされることです。

神ご自身がこう言われます。

「わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」(出15:26新改訳二〇一七)

もちろん、それはヨブ記が示すように自分が何か罪を犯したから病気になっているという意味ではありません。イエス様もこう言っています。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現われるためです。」(ヨハネ9:3新改訳二〇一七)

ただ使徒ヨハネはこう書いています。

「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」(3ヨハネ2新改訳二〇一七)

私たちはイエス様のみこころを自分の思いとして病気の癒しのために祈っていきましょう。