pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

マルコ13:32-14:16

「種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」」(14:12)

聖餐式の原型は、過ぎ越しの食事にあります。過ぎ越しの食事は、見て、匂いを嗅いで、味わい、感じるものです。また、過ぎ越しの食事の中で、出エジプトの出来事が語られます。イエス様も出エジプトの話をしたと思います。出エジプトは、エジプトの奴隷生活から、イスラエルの民を神が解放された話です。イエス様は、出エジプトの話をしながら、これからご自身が死なれることを語りました。過ぎ越しの祭りで食べるパンを、ご自身のからだと同一視して、味わうようにさせました。過ぎ越しの祭りで飲む杯を、ご自身の血と同一視して、味わうようにされました。そのようにして、弟子たちは、出エジプトのストーリーと、これから起こる出来事、十字架の死と復活を、リンクすることができるようにしました。

マルコ13:1-31

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(13:31)

第二次世界大戦の時、ナチス・ドイツに服従しなかったために、大学教授の職を失ったスイス人神学者バルトは、スイスに帰国する電車に乗る前、見送りに来た学生にこう言いました。

「釈義、釈義、釈義」(Exegesis)

つまり、時の流れに翻弄されないために、しっかりと聖書を学ぶように学生たちに言いました。終わりの時代に生きる私たちも、目を覚ましているためには、聖書を学ぶ必要があります。というのも、イエス様もこう忠告しています。

「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」(13:22)

惑わされないためには、しっかりと聖書を学ぶ必要があります。

マルコ12:28-44

「そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」」(12:32-33)

イエス様の時代のイスラエルは、神殿を中心としたユダヤ社会でした。多くのユダヤ人たちにとって、神殿が、彼らの精神的支柱でした。しかし、イエス様は、ご自身の「神の国運動」を通して、結局のところ、「神を愛し、隣人を愛すること」が優先されると指摘しました。なぜならば、それだけが、私たちの人生の中で、残り続けるものだからです。使徒パウロも、このように言っています。

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13:13新共同訳)

マルコ 12:13-27

「するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。」(12:17)

毎年この時期、確定申告を提出するとホッとします。税金を納めることは国民の義務ですが、今日の箇所の内容は、私たちが考える納税と少し話が違います。敬虔なユダヤ人たちは、自分たちの神殿に税金を納めることに関しては、そんなに問題として捉えなかったと思います。ここで問題になっていることは、自分たちの国を支配しているローマ帝国に対する納税ということです。しかも、税金として支払わなければならない貨幣にも問題がありました。ローマの貨幣には、当時の皇帝の肖像と「神の子」という称号が刻まれていました。ですからイエス様の発言には「神の国」は、まことの神が世界の王となることであり、銀貨に刻まれた者が、神の子ではないということを暗に示しています。

今日は主の日。共にまことの神に礼拝を捧げましょう!

マルコ11:27-12:12

「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」(12:10,11)

今日の箇所は詩篇118篇からの引用です。諸説ありますが、建物を建てる時に、どこにも合わないと捨てられた石が、アーチ構造の頂上の「要石」(キーストーン)として必要とされたものだったという話から来ていると言われています。この石が、アーチの両側からかかる力を受け止めバランスをとり、建造物の構造は保たれます。外すと崩れてしまう重要な石であり、アーチの両端をつなぐ役割を果たす欠かせない石です。イエス様が言いたかったのは、神の御子であるイエス様が来られたのに、「建てる者たち」、- ここでは、祭司長をはじめとするユダヤ人指導者たちのことですが – 彼らが考える建物のどこにも合わないと、彼らはイエス様を拒絶し、捨ててしまったということです。イエス・キリストによって神の救いの計画は完成します。

マルコ 11:1-25

「そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」」(11:17)

「強盗」と訳された言葉は、「過激な国粋主義者」に対して使われていた言葉でした。ですから、イエス様が問題視したことはこういうことです。イスラエルの国は、本来、世界の光として用いられるために選ばれたはずでした。ところが、彼らは国粋主義に陥り、誤った選民思想で、世界を啓蒙するどころか裁いていました。神殿はすべての民のためにイスラエルに神が住まわれることを象徴するものでした。ところが、イスラエルの人以外の人を除外する場所となっていました。イエス様が追い出したその売り買いをしていた場所は、「異邦人の庭」と呼ばれる、ユダヤ人以外の人たちが祈るために設けられた場所でした。イエス様はすべての民が祈れるように、祈りを妨げるものを追い出されるお方です。

マルコ10:32-52

「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」(50節)

バルテマイがいたエリコという町は、温暖な気候で、日中、上着を着る人はあまりいません。上着は物ごいの象徴であり、彼はこの上着を地面に広げて、お金をもらっていました。つまり、上着を脱ぎ捨てたと言うことは、物ごいをやめたということです。上着を脱ぎ捨てたら、もう誰かからお金をめぐんでもらうことはできません。自分で生きるために働かなければなりません。それは、長年、物ごいとして生きてきたバルテマイには、とてもチャレンジなことだったと思います。しかし、彼は、そのような「新しい人生」を欲したのです。結果的に彼は目が見えるようになり、イエスについていく新しい人生が始まりました。イエスについていく人生というのは、

「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)

という生き方です。

マルコ10:13-31

「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(10:25)

富んでいる人は神に祝福されている人だと、当時の人は判断しました。そして、貧しい人は、何か問題がある人と裁いていました。つまり、今日の箇所のイエス様の発言は、目の前の状況を、私たちが自分勝手な憶測で判断して、祝福されているとか、祝福されていないとか、言ってはいけないということが込められています。あくまでも、祝福は神の領域ということです。それでイエス様は続けて言います。

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(27節)

私たちは、その人の一時的な状況で判断して、祝福されているとか、祝福されていないとか、言うべきではありません。今、富んでいるから祝福されているとは限りません。今、貧しいからといって祝福されてないとは限りません。

マルコ 9:33-10:12

「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」(9:40,41)

ブルックリン・タバナクル教会のジム・シンバラ牧師はこう言います。

「その教会の牧師が聖書から正しい教理を説き明かしているかどうか、あるいはその牧師が常に祈っているかどうかということよりむしろ、教会が内部分裂、争い、中傷、闘争心などを克服しているかどうかの方が重大な問題です。…たとい、牧師が祈りと説教を通して御霊をお招きしようと懸命に努力したとしても、教会内に中傷、陰口、もめ事があるとしたら、御霊は来てはくださいません。」

残念ながら、教会の歴史はこの繰り返しでした。そのような葛藤の中に生きていた中世の神学者アウグスティヌスはこう言いました。

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」

マルコ 9:2-32

「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。」(9:8)

ペテロがイエス様のため、モーセのため、エリヤのために幕屋を造りたいと申し出た時、神様はこう言われました。

「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(7節)

そして、イエス様以外、だれも見えなくなりました。これは、あたかも、私たちが「幕屋」を造るのではなく、イエス・キリストが「幕屋」なのだと言っているように思われます。聖書のメッセージは、イエス・キリストこそ、天と地が重なる、この幕屋であるということです。ヨハネの福音書に、こういう箇所があります。

「ことばは肉なる人となって、私たちの間に幕屋を張った。」(ヨハネ1:14岩波訳)

つまり、イエス・キリストの存在そのものが、天と地が重なり合う幕屋なのです。幕屋を造るのではなく、イエス様との時間を過ごすことが大切です。