エズラ記 7:11-8:14

「私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」(7:28)

エズラは主の御手が彼の上にあることを知っていました。神の御手が彼の上にあることを知っていたから、彼は奮い立つことができました。神の見えない御手が私たちの上にあることを知るならば、私たちもまた立ち上がることができます。初代教会も大ぜいの人が信じて主に立ち返った理由は、神の御手が彼らとともにあったからだと言います。(使徒11:21参照)神の御手は見えなくても、神の指紋は見ることが出来ます。聖書は言います。

「神を尋ね求める者には恵み深い御手がある」(8:22協会共同訳)

確かに、神を尋ね求めた博士たちはイエス・キリストを拝することが出来ました。私たちも、神を尋ね求めているならば、神の御手があることを確信することができます。神の御手が私たちを導き、励まし、守り、強め、勇気を与えます。

エズラ記 6:1-7:10

「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。」(6:14)

イスラエルの人々が神殿を建てることに成功した理由の一つとして、預言が挙げられています。ここでいう預言とは、ハガイ書、ゼカリヤ書に記録されている聖書のみことばです。私たちが何かを成し遂げるためには、いろいろな要素が必要ですが、何よりも、神の御言葉、聖書に耳を傾ける必要があります。自分の思いや、自分の意志で成し遂げようとして、行き詰まる時があると思います。その時、何に耳を傾けるかが重要です。私たちは神の言葉、神の語りかけが必要です。神は今も、私たちが成し遂げることができるように聖書のみことばをもって、私たちを力づけられます。

エズラ記 4:6-5:17

「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。」(5:1)

二人の預言者がどんな預言をしたかは、ハガイ書とゼカリヤ書に書いてあります。ハガイ書2章にこう記録されています。

「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。‐万軍の主の御告げ。‐あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。」(4‐7節)

世界を揺り動かす大リバイバルを信じて、祈りましょう!

エズラ記 2:68-4:5

「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」(4:4)

キリストを信じて生きていくならば、逆風は吹かず繁栄するというのは、聖書的ではありません。イスラエルの人々は神殿を建て直そうと礎を据えて建て始めた時、逆風が吹きました。神の国のために何かをしようと思い立つ時、その気力を失わせるようなことが起こったりすることがあります。「どうして?」と思うようなことが起こったりすることがあります。逆風は、私たちがあきらめるために吹くのではなく、私たちが空高く舞い上がるために吹きます。もし、私たちが逆風を祈りに変えることができるならば、マイナスは必ずプラスになります。不可能に見える時こそ、神の奇跡を見る時になります。この後、預言者ゼカリヤが気力を失った人々に神の言葉を伝えます。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)

エズラ記 1:1-2:67

「そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」(1:5)

バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、生活の基盤ができたバビロンから荒廃したエルサレムに戻る気にはなれませんでした。彼らの託された神殿の再建は、決して容易な事ではありませんでした。それでもなお、彼らを突き動かしたのは、

「神にその霊を奮い立たされた」

からです。この世界でキリストの教会を建てあげることも同じような状況だと思います。この世でキリストの教会を建てあげることは聖書が命じていることですが、容易なことではありません。私たちもまた、神に奮い立たされなければ成し遂げられません。彼らはまた6節にあるように物資的な援助、励ましもあったことがわかります。

主の宮を建て上げるために、協力が必要です。

マラキ書 2:17-4:6

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(3:10)

私たちは神の愛に応答して、何かを捧げたいと思います。しかし、どのぐらい神に捧げるのが適当でしょうか?神は私たちに、収入の十分の一をもって試すことを勧めます。つまり「いくら捧げたか」ではなく、「どのような心で捧げたか」を神はご覧になられていると言うのです。神の目は、金額ではなく心に向けられているからです。所属する地域教会に捧げる時、神は私たちのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注がれます。その祝福は自分個人だけにとどまるものではありません。自分が属している共同体全体にあふれます。強制ではありませんが、神の祝福を体験できるように、捧げる事ができるように祈りましょう。

先週の出来事

クリスマスが来ると思い出す、自分が洗礼を受けたあの日のこと。早いもので32年もの月日が流れてしまいました。横浜市民となって23年。その直後から教会学校の先生の働きをしていますが、いまは生徒が一人なのでこれまでで一番静かに時間が流れてゆきます。毎週聖書のお話をする前に、「先週の出来事」を話してもらっています。嬉しかったこと、悲しかったこと、心に残ったことなどを自由に言う時間なのですが意外と意識せずに時間を過ごしてしまっていることに気付かされます。前述した人生の節目節目はなかなか忘れませんが、「日常」はまるで指の間からこぼれていく砂のように何の引っ掛かりもないものになっているとしたらもったいない気がします。ロープに小さな結び目をつけていくように、日々の出来事に神様がともにいてくださったことを意識することができたらもっと恵みを数えられるのではないかと思うのです。

先週の皆さんの歩みに、結び目はいくつありましたか?

(小山晶子牧師人)

マラキ書 1:1-2:16

「「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。―主の御告げ。―わたしはヤコブを愛した。」(1:2)

神はイスラエルの民に言われました。

「わたしはあなたがたを愛している。」

しかし、イスラエルの民は懐疑的で、神にこう答えます。

「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」

神は近視眼的なイスラエルの民が、現状ばかり見ないで、過去を見るように仕向けます。

「歴史を見てごらんなさい。」(メッセージ訳)

もし、神の愛に疑いを感じるならば、歴史を見てください。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

今から約二千年前のクリスマスは、神の愛の現れです。

今日は主の日。アドベント三週目。共に主に礼拝を捧げましょう。

エステル記 9:1-10:3

「それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。」(10:3)

モルデカイが尊敬された理由が二つあります。

一つは同胞の幸福を求めたこと。

もう一つは「平和」を語ったこと。

「平和」は聖書のキーワードの一つで原語は「シャローム」。「平和、平安」という意味と同時に「満たし、健康、福祉、健全、完全、無事、祝福」等の意味があります。聖書は言います。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和(シャローム)を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(Ⅰペテロ3:10‐12)

イエス・キリストが成し遂げられた和解、シャロームの実現に生きることができますように。