ネヘミヤ記 9:38-11:21

「こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」(10:39)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「このように、私たちは神殿をなおざりにしないことで一致したのです。」

私たちは信仰を個人的なものとしすぎる傾向があると思います。もちろん、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れることから信仰生活は始まります。しかし、それはまた信仰の共同体である「キリストのからだ」である教会の一員になるという意味があります。教会をなおざりにした信仰生活というのは、聖書的にはありえません。イスラエルの人々は、自分と神との関係が大事だから、神殿はどうでもいいとはしませんでした。詩篇にもこういう箇所があります。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(133:1新共同訳)

何ができなくても、教会で共に座って礼拝を神様に捧げるだけでも大切なことです。今日は今年最後の主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ネヘミヤ記 9:1-37

「彼らはその所に立ったままで、一日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。」(9:3)

多くのクリスチャンたちが祈り、待ち望んでいるリバイバル現象が今日の箇所に描かれています。

「二、三時間の聖書のメッセージ。その後、数時間にわたって、罪の告白と悔い改めの祈りの時間。そして、何時間も続く神への賛美と礼拝。」

リバイバルが起こると人々は聖書のみことばをもっと読み、味わい、そして学びたいと、何時間でもみことばに耳を傾ける人々で教会が溢れます。そして、人々は神の前に砕かれ、悔い改めの祈りが何時間も続きます。神は砕かれた悔いた心に目を留められます。そして、神を礼拝したい人たちで教会が溢れます。霊とまことをもって賛美と礼拝を捧げる人たちで満ちあふれるその場所に、誰でも分かるほどのキリストの栄光と臨在が満ちあふれます。

ネヘミヤ記 7:4-8:18

「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(8:10)

今日の箇所を他の訳では以下のように訳しています。

「主を喜ぶことは、あなた方の力だからだ。」(新改訳二〇一七)

「神様を喜ぶことこそ、あなた方の力なのだ。」(LB)

「主を喜びとすることこそ、あなたがたの力であるからだ。」(協会共同訳)

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(新共同訳)

「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(口語訳)

「主の喜びはあなたがたの力である。」(直訳)

「神の喜びは、あなたの力です。」(メッセージ)

私たちが神を喜ぶことも私たちの力になりますし、私たちに与えられる神の喜びも私たちの力になります。日曜日の礼拝を、セレブレーション(祝典)とも呼びます。日曜日、キリストは復活されました。今、生きておられる主を喜び祝うことが礼拝です。私たちがキリストを喜び祝う時、力づけられます。主に賛美を捧げることによって力を受けます。

ネヘミヤ記 5:1-7:3

「事実、これらのことはみな、「あの者たちが気力を失って工事をやめ、中止するだろう。」と考えて、私たちをおどすためであった。ああ、今、私を力づけてください。」(6:9)

悪魔は脅したり、騙したりして、神の民の気力を失わせようとします。福音伝道をする気力を失わせようとしているのは悪魔です。教会を建てあげようとする思いを挫こうとするのは悪魔です。ですから、ネヘミヤのように主の前に膝をかがめ、主の助けをいつも求める必要があります。

「私を力づけてください」

と、祈り求める必要があります。私たちは、祈り続けるならばその結果を見ることができます。

「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。私たちの敵がみな、これを聞いたとき、私たちの回りの諸国民はみな恐れ、大いに面目を失った。この工事が、私たちの神によってなされたことを知ったからである。」(15,16節)

祈りましょう。主は成し遂げられます!

ネヘミヤ記 3:1-4:23

「しかし私たちは、私たちの神に祈り、彼らに備えて日夜見張りを置いた。」(4:9)

いつの時代でも、神のために働こうする人たちに対する悪魔の攻撃の方法をここに見ます。それは、「嘲り」「脅し」「落胆」。

まず悪魔は、神のために働くことをばからしいことのように「嘲り」ます。

それでも神のために働いていると「脅し」ます。悪魔の「脅し」に耳を傾けてはいけません。警戒しつつ神に祈り求めることが大事です。どうやって警戒し、どうやって身を守ったらいいか?それは、エペソ6章にあるように「神の武具」を身に着けることです。特に「信仰の大盾」をしっかりと持ち、こころないことばや否定的な思いの矢から自分の心を守ることが大事です。

その次の攻撃は「落胆」。「無理だ…」と思わせます。(10節参照)しかし、聖書は言います。「敵を恐れるな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のため、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え。」(8節)

ネヘミヤ記 1:1-2:20

「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」(1:11)

「あなたの名を喜んで敬う」を新改訳二〇一七では、「喜んであなたの名を恐れる」と訳しています。「敬う」と訳された単語は「恐れる」という意味があります。神に対する健康的な恐れの欠如は、祈りの妨げとなります。ネヘミヤは、「幸いを見せ」て欲しいと祈ります。「繁栄」や「成功」を意味する単語です。聖書協会共同訳では、「願いをかなえ」と訳しています。「繁栄」や「成功」といった祝福を求めること自体は、聖書的であり、決して悪いことではありません。すべての祝福、良いものは神から来るからです。

エズラ記 10:1-44

「立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」(10:4)

今日の箇所から神が私たちに教えていることは、エズラがリーダーシップをとることができた理由の一つは、彼を励まし、彼を支える協力者たちがいたということです。どんな組織や団体でも、リーダーを励まし、協力者となることができる人々が必要とされています。特に、神のために立ち上がった献身者たちを、励まし、協力する姿勢が必要です。1節には、こんなことが書いてあります。

「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。」

一緒に泣いて、一緒に祈ることを通して、開かれる世界があります。牧師は、共に涙を流し、祈り、協力してくれる人を必要としています。

熱湯

自分でも自分がしていることが分からない。そんなことはありませんか。  先日、パスタを茹でるために大きな鍋でお湯を沸かしていました。せっかくなら火力の強い隣のコンロに移そうと思いほぼ沸騰した鍋の両側をしっかりもって持ち上げたその時、自分が素手で持ち上げたことに気付きました。あ、でもそんなに熱くないのね。そう思った次の瞬間、熱い!!ようやく熱さを感知した脳が指令を出し、すぐさま手を放したくなりましたが、まだ持った鍋は隣のコンロに到達していません。熱さに耐え、隣のコンロに鍋を置いたつもりだったのですが焦って安定した場所に置く前に手を放してしまい、あぶない!と思った時には鍋は絵に描いたようにコンロから落ち、熱湯が床一面に。スローモーションで見ているようでした。その瞬間夫が助けてくれたので熱湯をかぶらなくて済んだのですが、なぜ私は素手で熱いと分かっている鍋を移動させようとしたのか、いまだに謎です。「彼らは自分のしていることが分からないのです。」というイエス様のお言葉を思い出しました。(小山晶子牧師人)

エズラ記 8:15-9:15

「すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。」(8:23)

聖書が教えていることは、神は私たちの祈りを聞いてくださるお方ということです。神は私たちの祈りに答えなければならないわけではありません。しかし、神は私たちの祈りに答えられることを選ばれる神です。エズラは王に、

「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」

と言っていたので、道中の敵からエズラたちを助ける部隊を王に求めることを恥ずかしく思いました。それで、エズラたちは祈りました。そして神は祈りに答えられました。

「私たちの神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。」(31節)

神は私たちの祈りを用いられます。

今日は主の日。クリスマス礼拝。共に主に礼拝を捧げましょう。