詩篇 5:1-12

「私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。」(5:2)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします。」(3節)

とありますので、この詩は「朝の祈り」と一般的に言われます。一日のはじめを、祈りをもってはじめるという習慣を身に着けることができれば大きな力となります。出エジプト16:21にこういう箇所があります。

「彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。」

これは、荒野で天から与えられたマナのことです。マナは取り置くことはできず、毎朝集めなければなりませんでした。同じように私たちも、朝ごとに祈り、聖書のみことばをいただく必要があります。昨日祈ったから大丈夫と言うことにはなりません。ただ私たちが祈る方は王なる神であることは忘れてはいけません。主権は王なる神にあります。

よし!いけるぞ!

関西にいたころは全く興味がなかったものの一つ「箱根駅伝」。横浜に住み始めてから年々身近になっています。普段使っている道が駅伝のルートである、ということが一番の理由だと思うのですが、中継のヘリの音や知っている店などが映るとテンションが上がります。縁もゆかりもありませんがいつのまにか青学を応援し、つながらなかったタスキに涙するチームと共に涙を流す、完全なにわかファンでもあります。でも、走る選手の後ろをついていく車から声をかけている監督の姿。「大丈夫、いいよいいよ、いけるぞ、区間新狙える!」「あきらめるな!」「あと1キロ、スパート、おまえならやれる!」ひたすら前向きに励まし続ける言葉。聖霊様ってこんな感じなのかな?そういった私に夫は一言。「そういう言葉だけじゃないと思うけどね。」ですよね~。時には厳しく、時には囁くように、反省を促したり励ましてくださったり。助け主なる聖霊様との二人三脚(?)で今年も前進していきたいと思います。2020年も神様に期待していきましょう。
(小山晶子牧師婦人)

詩篇 4:1-8

「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。」(4:7)

私たちはしばしば喜びや平安を間違った場所に探し求めてしまいます。神は言われます。

「人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。」(2節)

私たちはお金こそ、成功こそ答えだと思います。しかし、それは空しいものであり、まやかしもの、偽りだと言います。神だけが喜びと平安の源だと聖書は言います。神が与える喜びは、この世の繁栄に勝ると言います。この世の繁栄が私たちを平安に導くとは限りません。事実、金持ちが平安とは限りません。私たちに本当の平安を与えるのは神様の臨在だけです。ですから詩人は歌います。

「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。」(6節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

箴言 1:1-7

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(1:7)

メッセージ訳では7節をこのように訳しています。

「神からはじめましょう。学ぶことの第一ステップは、神にひざまずくことです。」

ユージーン・ピーターソンという神学者はこんなことを言っています。

「箴言は、人生のあらゆる詳細が永遠の重要性があるという聖書の声明です。」

聖書の神は、私たちの宗教的側面しか関心がないというお方ではありません。私たちの日々の生活も、重要なものとして関心をいだいておられます。家族生活を、信仰生活と同じ真剣さで聖書は扱います。ですから、聖書は信仰面だけではなく、生活面においても私たちの規範となります。

「知恵は町の中で叫んでいます」(20節LB)

とありますが、聖書は生活の現場に関わるものです。

「では、どうしたら賢くなれるのでしょう。まず主を信じ、主を大切にすることです。愚かな人は主の教えをさげすみます。」(7節LB)

詩篇 3:1-8

「しかし、主よ、あなたこそ私の周りを囲む盾、私の栄光、私の頭を上げる方。」(3:3)

詩人が感じたように、時として私たちは右も左も敵ばかりのように感じてしまう時があります。神を信じて何になるのかと嘲られてしまう時、私たちの頭はうな垂れてしまいます。しかし、神は私たちのため息を聞いておられます。私たちの涙を数えておられます。神は私たちの頭を高く持ち上げてくださるお方です。神は神の時に、最善の時に、すべてを美しくされます。なぜなら、

「本物の救いは神から来ます。」(8節MSG)

ですから、聖書は私たちに命じます。

「地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」(コロサイ3:2LB)

「天上のこと」とは、死後の世界と言うよりも、「神の国」、神の統治を意識するということです。神のみこころで心を満たすということです。なぜなら、最終的に、神のみこころがなされるからです。

詩篇 2:1-12

「天の御座に着いておられる方は笑い」(2:4)

人類の歴史は、アダムとエバ以来、神を否定し、神のみこころを求めることなく、自分の欲望を成し遂げたいと願うことに尽きます。そのため、自然界の秩序は崩れ、人間社会の調和は失われました。しかし、人がどんなに天につばを吐こうとも、それがその人に返ってくるように、神は人間の企てを一笑されます。ある人が、壁にこう書きました。「神は死んだ。ニーチェ」次の日、別の人が、壁にこう書き加えていました。「ニーチェは死んだ。神」ボルテールという哲学者は、二〇世紀になる前に、聖書はこんな本もあったと博物館入りすると言いました。私たちは今、二一世紀に生きていますが、聖書は、博物館入りするどころか、今も、世界のベストセラーです。逆に、ボルテールは、専門家以外あまり知られていません。まず何よりも、天に座すお方を認めることができますように。

詩篇 1:1-6

「その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」(1:3)

詩篇はまず

「幸いなことよ」

から始まります。山上の説教の八福の教えで、イエス様が「幸いなるかな」から始められたように、この詩は始まります。幸いな者は、神のみことばを喜びとし、昼も夜も神のみ言葉を口ずさみます。思い巡らします。黙想します。神様は、そのような人を祝福し、「そのなすことはすべて栄える。」と約束されます。この新しい年、神様のみことばを喜びとし、神様のみことばを思いめぐらし、神様が約束された祝福の世界を体験することができますように。

「義人の願うところは皆成就し、そのなすところは成功するというのである。」(浅野順一師)

※ 元日は13時半から新年礼拝です。

ネヘミヤ記 13:1-31

「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。」(13:14)

ネヘミヤがエルサレムに戻ってくると、

「私は、レビ人の分が支給されないので、仕事をするレビ人と歌うたいたちが、それぞれ自分の農地に逃げ去ったことを知った。」(10節)

とあります。人々は「働き人」(レビ人)を軽視し、「働き人」は奉仕し続けることができなくなってしまいました。問題は、イスラエルの人々が神殿をないがしろにしていたことでした。ネヘミヤは言います。

「どうして、神殿をそんなにないがしろにするんだ」(11節LB)

これは、現代に生きる私たちにも問われています。「キリストのからだである教会」をないがしろにしていないでしょうか。ネヘミヤは、神を大切にするがゆえに、神殿を大切にしました。私たちも「キリストのからだである教会」を大切にしましょう。

ネヘミヤ記 11:22-12:47

「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」(12:43)

いつの時代も礼拝の中心が賛美の歌を神に捧げることであったことが、この箇所から分かります。女性も子供も一緒に喜び歌ったとあるように、これは会衆賛美です。さらに、「喜びの声ははるか遠くまで聞こえた」という箇所から、結構大きな音だったことも想定されます。しかし、無秩序であったわけではありません。46節には「昔から、ダビデとアサフの時代から、神に賛美と感謝をささげる歌うたいたちのかしらがいた。」とあるように、ワーシップ・リーダーが導いていたことも分かります。聖書が私たちに伝えていることは、神はそれほど私たちの賛美の歌声を望んでおられるということです。心から主に賛美の歌声を上げましょう!

今年最後の日曜日です。

はやいもので2019年が今日を含めてあと三日で終わろうとしています。それぞれ様々な出来事の中で一日一日を積み重ねてきたことでしょう。終わってしまうとあっという間ですが、実はいろんなことがあったことに驚かされます。大きな台風が二度も直撃したことはわたしのなかでは今年の大きな出来事の一つですし、義兄の手術のこと、リラの福島コンサートツアー、友人を天に見送ったこと、長男の入試やオープンチャーチ、クリスマス、アルファフィルムシリーズの開催などなど。それ以外にもいろんなことがあって悩んだり、不安になったり。でも神様は必ず脱出の道をそなえてくださっていました。そういう意味で恵み多き一年であったとも思います。全てを益に変えてくださる主を信頼して歩めることこそ、幸いな人生なのだと思います。2020年も一足一足、主に信頼して歩んでいくことができますように。みなさん、今年も拙い私の文章をお読みくださりありがとうございました。来年も引き続きよろしくお願いします!
(小山晶子牧師人)