詩篇144:9-15

「幸いなことよ。主を自らの神とする民は。」(144:15)

「ヤハウェを神とする民は幸いだ」というのは、祝福の宣言です。人は結局のところ、何かを「神」として生きています。現代は「神」という言葉は使いませんが、ある人は「お金」を神とし、ある人は「快楽」を神とし、その神々に自分を捧げて仕えています。自分が何に一番時間と心を費やし、何に一番影響を受けているかを吟味すれば、自分が仕えている「神」がなんであるかが自ずと分かります。ヤハウェなる主を神として生きている人は祝福されている、幸いだと聖書は言います。もちろん、この詩は個人というよりも「民」とあるように共同体が意識されています。個人個人がヤハウェを神とするのですが、共同体として、ヤハウェを神とするところに大きな祝福があります。地域教会という共同体は当然ですが、私たちが国家的なリバイバルを祈り求める理由がここにあります。

詩篇144:1-8

「わが岩なる主がほめたたえられますように。戦いのために私の手を戦のために私の指を鍛えられる方が。」(144:1)

神は私たちを鍛えられるお方です。神は試練や逆境を通し、悲しみや憤りを通し、私たちがそれらを乗り越えていくことを通して信仰を鍛え上げていきます。スポーツや音楽、勉強もそうですが力をつけるためには、一度ではなく何度も何度も、訓練を受けなければなりません。その訓練は容易ではなく、本当に忍耐の必要な作業であることを私たちは皆経験から理解することができると思います。LBでは、後半部分をこう訳しています。

「戦いが起こると、主は、弓を引く私の腕を強めてくださいます。」

私たちは自分の力で乗り越えたと思いやすいのですが、乗り越える力も神が与えてくださった…。

「神様は、あなたがたが誘惑や試練に忍耐強く立ち向かえるように、それから逃れる方法を教えてくださいます。」(1コリント10:13LB)

詩篇143:1-12

「あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。」(143:10)

後半部分をLBでは、次のように訳しています。

「恵み深い御霊によって、私を祝福の道へと導いてください。」

イエス・キリストを信じる時、私たちの内に聖霊なる神が内住され、私たちを導いてくださいます。私たちを導いてくださる聖霊が、いつくしみ深く、恵み深い存在であるということを心に留める時、私たちの心は平安に満たされます。神のいつくしみ深さを大袈裟に言うことは不可能です。神はいつくしみ深い方ですから。また、聖霊なる神が導いてくださる平らな地は、祝福の道です。なぜなら、神の私たちに対する計画は「祝福を与える計画」(エレミヤ29:11LB)だからです。聖霊はその著書である聖書をもって私たちを祝福の道へと導かれることも心に留めたいと思います。

箴言30:11-23

「自分をきよいと見るが、汚物を洗い落とさない世代。」(30:12)

私たちは罪をきよめられる必要があります。聖書は言います。

「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(1ヨハネ1:8)

この箇所では、いくつかの罪に言及がされます。

親を呪う罪(11、17節)。

高ぶりの罪、「お高くとまって、他のみんなより自分がより良いと考えてはいけない」(13節MSG)。

貧しい者を顧みない罪(14節)。

性的な罪を犯していても「「私は不法を行わなかった」と言う。」(20節)。

私たちは、罪は罪として認識し、罪を告白し、悔い改める必要があります。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

詩篇142:1-7

「私の霊が私のうちで衰え果てたときにもあなたは私の道をよく知っておられます。」(142:3)

「神は知ってる」という事実は、私たちの日々の歩みに平安を与えてくれます。今も多くの人に愛されている賛美の中に「明日を守られるイエス様」という歌があります。

「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから。明日は、私には分からないけど、明日を守られる、イエスがおられる。」

私たちは見えない明日に、様々な不安を抱えて生きています。コロナ禍はいつ収束するのか?めまぐるしく変わる社会情勢を伝える新聞やニュースは、私たちの不安を煽るものの、平安を与えてはくれません。「あなたは私の道をよく知っておられます」という確信が、私たちの心に平安を与えてくれます。

今日はアドベント三週目。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げ 
ましょう。

詩篇141:1-10

「正しい人が真実の愛をもって私を打ち、頭に注ぐ油で私を戒めてくれますように。私の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。」(141:5)

現代人は「傷つきやすい」とか「打たれ弱い」とか言われますが、だからこそ今日の箇所を心に留める必要があります。LBでは次のように訳しています。
「神を敬う人からのきびしい忠告は、私を思う心から出たものです。非難されたように感じても、私にとって薬となるのです。私が彼らの非難を拒絶することがありませんように。」教えられやすい心をもつということは、私たちの人生の成長のためには不可欠なものです。しかし、どんなに私を思う心から出た忠告であっても、非難されているように感じ、傷つき、倒れてしまう時もあります。ですから、詩人がそうであったように、「拒絶することがありませんように。」と祈ることは、大切なことです。

詩篇140:6-13

「私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、私の救いの力よ。」(140:6,7)

LBはこう訳しています。

「ああ、私の救い主であり盾である主よ、この祈りに耳を傾けてください。」

天地万物を創造された偉大な神を、私の神、私の救い主、私の盾と呼ぶことができることは、なんという特権でしょうか。しかも私たちは、このお方に祈ることができるのです。ダビデの人生はまさに波乱万丈でした。そんな彼がすばらしい人生を送ることができたのは、この信仰にあったことは明らかです。私たちもダビデのように、私の神、私の救い主、私の盾と呼ぼうではないでしょうか。私たちの主イエスは、そのために十字架にかかり死なれ、よみがえられたのですから。

「私の主、私の神、私の救い主、私の盾なるイエス様、あなたを呼び求めます。」

箴言 30:1-10

「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。神のことばに付け足しをしてはならない。神があなたを責めて、あなたが偽り者とされないために。」(30:5,6)

LBではこのように意訳しています。

「神のことばはすべて真実で、神は頼ってくる者をみな守ってくださいます。だから、神の言うことに何かを付け加えて、うそをついたと言われないようにしなさい。」

私たちは聖書を神のみことばであると信じています。ですから人為的な付け足しは恐ろしいことと考えます。神が言ってもいないことを、神の名前で語るほど、恐ろしいことはないからです。それはまた、聖書の全体像(メタ・ナラティブ)を意識することも含まれます。

天地創造→人間の堕落→アブラハム契約(イスラエル)

→イエス・キリストの十字架と復活→教会→新天新地。

この聖書の全体像を認識し、創造主なる神により頼んで生きていく中で、主の守りを体験します。

詩篇140:1-5

「主よ。私をよこしまな人から助け出し暴虐を行う者から守ってください。」(140:1)

「暴虐」と訳された単語は、多くの場合、社会的に力のある者たちが弱者を搾取、抑圧することを含意します。不当な告発を受けた信仰者が主なる神に「正しい裁き」を祈り求める姿がここにあります。神はモーセを通してイスラエルの民にこう告げました。「裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。あなたがたにとって難しすぎる事柄は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」(申命記1:17)このみことばのゆえに詩人は言います。「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し貧しい者のためにさばきを行われることを。」(12節)

詩篇139:17-24

「神よ。私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。」(139:23,24)

「とこしえの道」、それは「創造の神が永遠の昔に定めた人間の歩みを指す」と月本氏は言います。

「主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」(エレミヤ6:16)

神は人を造られた時、幸いの道を用意されていました。しかし、人は神に背を向け罪を犯したがゆえに、その道を見失ってしまいました。聖書は警告します。

「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。」(箴言16:25)

私たちは謙遜にとこしえの道を歩むことができるように、道であり、真理であり、いのちであるイエス様に祈り求める姿勢が必要です。