箴言31:10-20

「しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」(31:10)

ある学者(ダグラス・スチュアート)はこのように言います。

品性の立派な妻の極端な献身の描写は、いろは歌の順序の結果です。各節はヘブル語アルファベットの順番の文字で始まっていて、ヘブル語で覚えやすく、耳に心地よいのですが、しかしその結果、厳格な批評家や字義的に読む人には、どんな女性もついていけない生活パターンに見えるようなものになっています。

ここでは、人が家族と社会にもたらす喜びを誇張によって強調しています。新約聖書の光に照らすならば、女性に限定すべきではありません。

「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

私たちはそれぞれ愛によって造られ、愛のために造られました。私たちは自分の個性を神の愛によって定義する必要があります。

詩篇147:12-20

「主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。」(147:18)

神のみことばには力があります。イザヤ書にもこうあります。

「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。」(55:10,11)

今日の箇所は寒い冬から春に向かう季節を示唆しているのでLBではこう訳しています。

「しかし、主が春をお呼びになると、暖かい風が吹いてきて、川面の氷を溶かすのです。」

今日はクリスマス。神が歴史に介入された日。寒い冬は終わり、リバイバルの春が来ます!

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詩篇147:1-11

「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(147:11)

人は腕力で神を振り向かせることはできません。10節をL Bではこう訳しています。

「どんなに足の早い馬でも、神から見れば、歩みの遅いかたつむりと同じです。どんなに腕力を誇る人でも、神からすれば、赤ん坊の手をひねるよりも簡単にねじ伏せられます。」

私たちはこの現実を飼い葉桶に寝かせられた救い主を見る時、気がつく必要があります。「メリー・クリスマス」と言う言葉の背後に理解する必要があります。人は人であり、神は神です。人は神にはなれません。しかし、神は人となられ救いを成就されました。ですから、神が喜ばれるのは、神を畏れ、神の信実の愛(ヘセド)に望みをおくことです。神のみを畏れ、神のみを信頼することです。

「神を畏れる人たちは神の注目を得ます。彼らは神の強さに頼ることができます。」(MSG)

詩篇146:1-10

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人。」(146:5)

神以外に頼ることのむなしさが記されています。

『人の助けをあてにしてはいけません。…人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて無になるのです。』(3,4節LB)

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあります。神は私たちが神以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。詩篇の中で、繰り返し神に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかったことが挙げられると思います。失敗しながら、神に正されながら、私たちもまた今日、神にのみ信頼することを学びます。

箴言31:1-9

「レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ。」とは、君子の言うことではない。」(31:4)

「王」という単語をメッセージ訳は「リーダー」と訳しています。リーダーがいつも酔っ払っていたら、ついていく人々は苦しむというのは、いつの時代も真理です。ですから聖書は言います。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)

LBは、「そこには多くの悪が潜んでいるからです」と訳していますが、確かに、歴史の中でも酒にまつわる悲劇があったことは事実です。この問題への対処法として、聖霊に満たされることが挙げられていることは注目に値します。聖霊に満たされることが様々な悪から私たちを守ってくれることとなるからです。

詩篇145:13-21

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられます。」(145:18)

「まことをもって」は「アーメン」をもってと訳すこともできます。ですから、メッセージ訳ではこう訳しています。

「神はそこにおられる。祈るすべての人のために。本気で祈っているすべての人のために。」

祈りは単なる気休めではありません。本気で祈る、その祈りに神が答えてくださることを私たちは体験します。後のユダヤ教においてこの詩は日毎の賛美の祈りに用いられたと言います。タルムードには、この詩を日に三度口にする者には、来るべき世界で神の子となることが約束されています。興味深いことは、主の祈りと通ずる面がこの詩にあります。「聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。」(21節)は「御名があがめられますように」(原意は「御名を聖とする」)と重なります。日々「主の祈り」を本気で祈ることにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

詩篇145:8-13

「主はすべてのものにいつくしみ深くそのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。」(145:9)

この詩篇はヘブル語のアルファベット順に始まる「アルファベット詩」で、ある学者は「主の栄光のABC」と表現しています。主なる神は天地万物を創造された神であり、造られたすべての被造物の上に憐れみを注がれるお方です。「いつくしみ深く」と訳された単語は「良い」(トーヴ)です。主なる神は、すべてに対して「良い」と言います。私たちは今、世界的な感染爆発(パンデミック)の中にいますが、この真理を手放してはいけないと思います。たとえ、今、そう感じられなくても神はすべてに対して良いお方です。

万事は益となります。

マイナスはプラスになります。

神は良い神であり、良いことを行われる神です。

そして、恵み深い神の思いやり、憐れみは、全ての被造物に注がれています。

今日はクリスマス礼拝。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇145:1-7

「代は代へとあなたのみわざをほめ歌いあなたの大能のわざを告げ知らせます。」(145:4)

LBではこう訳しています。

「それぞれの時代に生きる人々が、その子どもたちに、神のすばらしさを伝えていきますように。」

私たちは次世代に、神の素晴らしさを伝えていく責任があると言います。子どもたちに、神の素晴らしさを伝える責任は、この時代に生きている私たちにあると言うのです。どのようにして次世代に神の素晴らしさを伝えていくことができるのでしょうか。まず第一に、私たちは祈ることができると思います。そして、次世代に伝えていくために、工夫する必要があると思います。自分たちの心地よいスタイルを押し付けるのではなく、次世代に伝えていくことができる方法を考え、挑戦していく必要があります。私たちもまた、そのようにして、前の時代の人たちから伝えていただいたということを心に留めていくことができますように。

箴言30:24-33

「もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、企んだりしたら、手を口に当てよ。」(30:32)

協会共同訳では「愚かにも自ら高ぶっているなら、手を口に当てよ。」と訳していますが、自らを高めることは愚かなことであり、自らを高めるために愚かなことを行うことは、まさに、「乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。」(33節)ことです。私たちは、自らを高めることに心を向けるのではなく、イエス・キリストを高めることに心を向ける必要があります。いつもイエス・キリストの御名が高められるように献身していく時に、何か良いものがそこから生まれてきます。「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(1ペテロ5:6)高ぶる思いがあるなら、手を口に当て、静まり、へりくだる時も大切です。