詩篇139:11-16

「私が隠れた所で造られ地の深い所で織り上げられたとき私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々がしかもその一日もないうちに。」(139:15,16)

この世界に、偶然生まれて来た人はいません。この世界に存在するすべての人は、神が存在することを望まれたがゆえに存在しています。私たちが母の胎内で構成されている時に、天は喜びに満ちていました。主のみこころのゆえに、一人一人は母の胎内で形成されていきました。目を閉じて、主の御手が、母の胎内で自分を形作られている情景を思い浮かべてください。神は「しまった」などと言うお方ではありません。私たちを形作り、私たちの存在を喜ぶ主の御顔を思い浮かべることができるでしょうか。主の目には、私たちの存在は、高価で貴いのです。

箴言29:19-27

「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(29:25)

へりくだることと自信を失うことは違います。自信を持つことと謙遜さを失うことは違います。大事なことは自分を過信することなく、主に信頼することです。私たちは、自分の能力や功績ではなく、主を信頼することからくる確信を持つ必要があります。メッセージ訳で25節をこう訳しています。

「人の意見の恐れは何もできなくする。神を信頼することがそのことからあなたを守る。」

今日はアドベント二週目。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げましょう。

詩篇139:1-10

「主よ。あなたは私を探り知っておられます。」(139:1)

神はすべてを知っておられる神です。表に出る行動だけでなく、私たちの心の奥底までも知っておられます。ですから、神に隠すこともできなければ、逃れることもできません。人は神を自分の願いをかなえてくれるジーニーのような存在のように捉えている限り、本当の意味で神との関係を築くことはできません。

「そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて及びもつきません」(6節)

と神を神として認めることができて初めて、神との関係を築くことができます。

私たち以上に、神が私たちのことを知っておられるのにも関わらず、私たちを愛しておられることを知るならば、心配することは何もありません。聖書は言います。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

詩篇138:1-8

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。」(138:3)

私たちが主を呼び求めるなら、主は私たちの叫びに答え、私たちのたましいに力を与えて強くしてくださいます。LBでは、こう訳しています。

「あなたは必ず私の祈りに答えて、力を与え、励ましてくださいます。」

私たちはどんなに、日々、力が必要なことでしょうか。力はただ主から来ます。ですから使徒パウロは言いました。

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

「私のたましい」と訳された単語は、「私のいのち(ライフ)」とも訳せます。神は私たちのいのちに力を与え、強めてくださるお方です。神のみこころを行うために、神は私たちに力を与え、強めてくださるお方です。ただ私たちは、主を呼ぶ必要があります。膝をかがめ、力を与えてくださる主を認め、祈り求める姿勢が必要です。

詩篇 137:1-9

「エルサレムよ。もしも、私があなたを忘れてしまうなら、この右手もその巧みさを忘れるがよい。」(137:5)

詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。しかし、彼の心はいつもエルサレムにありました。彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?個人的にも神は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ一八・二〇参照)主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。主日礼拝を大切にしましょう。主は臨んでくださいます。

箴言 29:10-18

「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。しかし、みおしえを守る者は幸いである。」(29:18)

「幻」と訳された単語が預言者が見る「幻」に用いられる単語なので、「預言的な幻」と訳されることがあります。それで、「神の啓示」、すなわち聖書の御言葉なしでは暴走すると言う意味と理解します。それで「しかし、みおしえを守る者は幸いである。」と続きます。メッセージ訳では前半部分をこう訳します。「もし、人々が神のなされていることを見ることができないならば、彼らはそこらじゅうでつまずく。」私たちは神の御言葉、神の御業に焦点を合わせる必要があります。神のみこころを求めないならば人は好き勝手にふるまい、結局、つまずき倒れてしまいます。使徒パウロは言いました。「私は天からの幻に背かず、…宣べ伝えてきました。」(使徒26:19,20)天からの幻、聖書の御言葉に生きることができますように。

詩篇136:13-26

「主はすべての肉なる者に食物を与える方。主の恵みはとこしえまで。」(136:25)

136篇の前半(4-9節)は、主なる神の天地創造の御業をたたえます。後半(10-22節)は出エジプト、主が約束通り約束の地を受け継がせてくださったことをほめたたえます。創造の神と歴史の神という両側面から主なる神をたたえます。LBでは25節をこう訳しています。

「主はいのちあるすべてのものを養ってくださるお方です。」

神はすべてを造られた創造主であり、すべていのちあるものを養われるお方です。イエス様も言われました。

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。」(マタイ6:26)
主なる神に信頼して、日々歩むことができますように。

詩篇136:1-12

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」(136:1)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語の「GOOD」にあてはまる「トーヴ」という言葉です。私たちが信じている神は「トーヴ」、善い神です。私たちは、主に感謝する理由がたくさんあります。しかし、この詩篇ではくりかえし「なぜならば、主の信実(へセド)は永遠だから」(私訳)と理由を述べます。私たちの神は善い神であり、永遠に信実なお方です。聖書は言います。

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実(へセド)を尽くし続けた。』」(エレミヤ31:3)

この「誠実」と訳されたことばが、「恵み」と訳された言葉と同じ言葉です。私達を永遠の愛をもって愛される主は、永遠に信実を尽くし続けるお方です。このお方に感謝を捧げましょう!

詩篇135:13-21

「主よ。あなたの御名はとこしえに。主よ。あなたの呼び名は代々に至ります。」(135:13)

月本氏は今日の箇所をこう訳しています。

「ヤハウェこそは永遠にあなたのみ名、ヤハウェこそは代々にあなたの呼称。」

「ヤハウェ」という神の名はいわゆる英語で言うところのBe動詞で存在を意味します。自立自存。人の手によらず存在されるお方。聖書はこのヤハウェ以外の神々の存在を認めることはありません。神々と呼ばれるものは「人の手のわざにすぎない」(13節)と言います。使徒パウロも明確です。

「「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。」(1コリント8:4)

メッセージ訳は「神よ、あなたは永遠に時代遅れにはならない」と訳していますが、昔も今もこれからも、永遠に変わることはありません。今日からアドベント。キリストのご降誕を覚えつつ、共に、主に礼拝を捧げましょう。

箴言 29:1-9

「正しい人は弱い者のためのさばきを知っている。悪しき者はそのような知識をわきまえない。」(29:7)

聖書が言う「義人」は、貧しい人の権利を認める人です。「神を信じない者は気にもかけません。」(LB)神を信じているならば、一人一人が偶然この世界に存在しているわけではないことを理解しているはずですから、弱い立場の人の存在を理解しようとするはずだと言うことです。それで、「正しいことをする王はしっかり治め、わいろを要求する王は国を滅ぼします。」(4節LB)私たちは、「調子のいいお世辞は罠」(5節LB)であることや、「愚か者と言い争ってもむだです。相手はかっとなり、感情をむき出しにして、こちらをさげすむだけです。」(9節LB)ということを知っておく必要があります。「愚か者はけんかの種をまき散らし、知恵のある人は事を丸くおさめます。」(8節LB)