ルカ 9章

「しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。」(9:55)

イエス様は「叱る」ことがありました。

8章24節では、風と荒波を叱りつけられました。

4章41節では悪霊どもを叱りました。

もっとも、9章21節も原文では同じ単語ですが、新改訳2017では「戒め」と訳しています。

ですから、感情的に叱っているということではなく、その行為を終わらせる目的で真剣に話すと言う意味です。

イエス様は、弟子たちの次の発言に表される姿勢を終わらせようとしました。

「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(54節)

ユダヤ人と対立関係にあったサマリア人が、イエス様を受け入れなかったことに対して、弟子たちは感情的になり、「滅んでしまえ」となったのです。

このような姿勢は終わらせなければなりません。

イエス様は、「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

ルカ 8章

「イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」」(8:25)

弟子たちはイエス様と共に、湖の向こう岸に渡りました。

イエス様がそう言われたからです。

しかし、その途中で突風が吹き下ろしてきて、水をかぶって危険になりました。

それで、弟子たちは眠っていたイエス様を起こして言いました。

「先生、私たちは死んでしまいます。」

イエス様が起きて風と荒波を叱りつけると静まりました。

イエス様のみことばに従順し、イエス様と共にいても、突風が吹くことがあり得ます。

今直面している試練は、神の御心に反しているからではなく、生きているからかもしれません。

イエス様が導かれたならば、最後まで導いてくださいます。

共におられるイエス様を信頼しましょう。

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

ルカ 7章

「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」(7:7)

百人隊長は自分がひと言命令するだけで部下が動くのだから、神の御子のひと言がどれだけ影響力があるのかをよく理解していました。

それでイエス様に、

「ただ、おことばを下さい」

と言いました。

イエス様はそんな百人隊長の信仰をほめられました。

私たちも、この百人隊長のようなみことば信仰が必要です。

「神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。」(創世記1:3)

と聖書が言うように、神の言葉は無から有を生じさせる権威があります。

聖書の本当の著者は聖霊なる神様です。

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

百人隊長のように、聖書のみことばに対する信仰をもつならば、生ける神の現実を体験することができます。

ルカ 6章

「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」(6:45)

聖書は「心」の重要性を強調します。

「何よりも、あなたの心を守りなさい。は生活全体に影響を与えるからです。」(箴言4:23)

健康食品に気をつける人も、心の健康には気をつけない人が多いと思います。

「心の良い倉」とあるように、私たちの心には「良い倉」と「悪い倉」があるようです。

すなわち、心に良いものを蓄えているか、悪いものを蓄えているかと言うことです。

私たちは自分の心を無防備にして、何でもかんでも取り込まないように気をつける必要があります。

自分の心に悪いものであるならば、見ないことを選ぶべきです。私たちは心を守る必要があります。

恐ろしいことに、

「心に秘めたことが、ことばになってあふれ出るからです。」(LB)

ルカ 5章

「そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(5:31,32)

イエス様が招かれるのは正しい人ではなく、罪人だと言います。

自分は大丈夫という人ではなく、問題を抱えている人を招いて、その思いを変えるためにイエス様は来られて、ご自身の教会を建てられます。

ですから、教会は完全な人の集まりではありません。

それぞれ、様々な問題を抱えつつも、聖霊に内側から変えていただく場所です。

私たちはイエス様が招かれている一人一人に尊敬をもって接する必要があります。

神の目には一人一人は高価で尊いからです。

教会でもっとも大切なことは、まことの医者、イエス・キリストが必要という自覚です。

ルカ 4章

「主の恵みの年を告げるために。」(4:19)

イエス様が故郷のナザレの会堂で開かれた箇所はイザヤ61章でした。

「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、」(1,2節)

ローマ帝国の支配下にあった当時のイスラエルの人々にとってみれば、

「神の復讐の日を告げ」

という部分は大切な一節でした。しかし、イエス様はあえてその手前で

イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。」(20節)

と聖書は言います。

イエス様のメッセージは復讐の日のメッセージではなく、恵みの年のメッセージでした。

そしてイエス様は宣言されました。

あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(21節)

今は恵みの時、今は救いの日です。

ルカ 3章

「そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」(3:16)

ヨハネの人生ははっきりしていました。

ヨハネはイエス様を指し示すことを人生のテーマにしていました。

「バプテスマ」という言葉は浸すという意味があります。

ヨハネは自分は水に浸すことしかできないが、イエス様は聖霊と火とで人々を浸すことができる力のある方だと言いました。

ヨハネの人生は教会のあるべき姿を示しています。

まず、一人でも多くの人が、イエス・キリストを信じて、水のバプテスマ(洗礼)を受けることができるように仕えていくことです。

そして、ヨハネがそうであったように、自分たちではなく、私たちよりも「力のある方」、イエス・キリストを指し示すことです。

ルカ 2章

「両親はそれに気づかずに、イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。」(2:43,44)

ヨセフとマリアはイエス様が一緒にいるものと思って旅を続けてしまいました。

私たちも同じ間違いを犯しやすい傾向があります。

イエス様がいるものと思い込んで自分の働きを推し進め、イエス様の臨在を失っていることに気がつかないのです。

もし、そういう状態であるならば、私たちはイエス様の両親がそうしたように、祈りを持ってイエス様を探す必要があります。

イエス様を見つけるまで、あきらめずに、聖書を読み、探し続ける必要があります。

イエス様を見出すなら、イエス様は言われるでしょう。

「父(なる神)の働きに関わることになることを知らなかったのですか?」(49節NTE)

私たちも父なる神の働きに関わっていかなければなりません。

ルカ 1章

「マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」(1:46,47)

福音書に出てくる最初の祈りはマリアの祈りです。

それは、神への賛美で始まります。

祈りは神への応答から始まります。

神がまず語られ、私たちは答えます。

マリアの祈りの言葉を読めば、マリアがよく聖書を知っていたことが分かります。

マリアの祈りのモデルは、1サムエル記2章に出てくるハンナの祈りだからです。

私たちは聖書を読むことを通して、神がまず語られていることを聞くことができます。

そして、私たちは祈りに導かれます。

「祈りとは、聖霊によって私たちに臨在してくださっている神に、注意深く臨む私たちの方法です。」(ピーターソン)
今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日のSSCの主日礼拝は10:25よりYouTubeのライブ配信のみで行われます。

マルコ 16章

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」(16:17,18)

イエス様は十字架にかかられ、私たちの罪をあがなうために死なれましたが、三日目に死の力を打ち破りよみがえられました。

そして、「天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(19節)と言います。

これは、イエス様は永遠の主権を受けられ、天の御座に着座されたということです。

イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(15節)と大宣教命令を命じられただけでなく、信じる者たちにしるしが伴う権威を授けられました。

イエス様が御座に座しておられますから、今、イエス様を信じる者は、イエス様の名によって悪霊を追い出すことができます。

イエス様が御座に座しておられますから、新しいことば、信仰の言葉を語ります。