マルコ 6章

「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」(34節)

群衆をご覧になったイエス様は、岩波訳では

腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた

と訳しています。

単に「かわいそう」に思ったというレベルではありません。

心の底からいたたまれない思いになったのです。

そのイエス様がされたことは「教え」ることでした。

教会がまず提供すべきことは、イエス様の教え、聖書のみことばを教えることです。

「神のことば」には力があります。

人がもっとも必要としているものは「神のことば」です。

「キリストのからだ」であるはずの教会が「神のことば」である聖書を教えなければ、どこが聖書を教えるのでしょうか?

はらわたのちぎれる想いに駆られて教えられたイエス様は、今もご自身のからだである教会を用いて、人々に聖書のみことばを教えられます。

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