ヨハネ 15章

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(15:5)

枝は幹を離れては生きていくことができません。

すべての養分は幹を通して流れてきます。

ぶどうの木は冬の間、葉はすべて落ちてしまいます。

しかし、幹から栄養が来ますので心配する必要はありません。

ですから、キーワードはとどまることです。

とどまる方法は、イエス様の戒めを守ること。(10節参照)

戒めは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」(12節)

「あなたがたは枝」とあるように、自分だけが枝と言う話ではありません。

私たちはキリストにつながっている共同体(コミュニティ)です。

ですから、互いに愛し合うことを学ぶ必要があります。

キリストを離れては何もすることができないからです。

ヨハネ 14章

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(14:26)

新約聖書が存在している理由は、聖霊が弟子たちに、イエス様が話したすべてのことを思い起こさせてくださったからです。

同じ聖霊なる神様は、今も、私たちにすべてのことを教え、私たちが聖書を通して読んできた神のみことばを思い起こさせてくださいます。

ですから、私たちは日々、聖霊なる神様を教師として歓迎する必要があります。

聖霊なる神様は、

助け主」(16節)

真理の御霊」(17節)です。

このお方は、

イエス・キリストを信じる者たちと共におられ

内におられます。(17節)
聖霊様、あなたを教師として歓迎します。今日も、あなたのみことばである聖書を通して、私たちに教えてください。

ヨハネ 13章

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(13:34,35)

キリストが私たちに与えた「新しい戒め」は「互いに愛し合うこと」でした。

残念ながら教会の歴史を振り返るならば、なおざりにされてきた感が否めません。

キリストの弟子であることを人々が認めるためには、「互いに愛し合うこと」だと言われたのにも関わらず、分裂の歴史が繰り返されてきました。

イエス様は弟子たちの足を洗い、こう言われました。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(14節)

すなわち、欠点を批判し合うのではなく、補い合うことを命じられたのです。

ヨハネ 12章

「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」(12:32)

イエス様は

ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して」(33節)

くださいました。

それは十字架に架けられることを意味していました。

それは、

今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。」(31節)

とあるように、暗闇の力、この世を支配するサタンを打ち破り、追い出されることを意味していました。

十字架は神の勝利であり、キリストの十字架の御業のゆえに、人はキリストのもとに集められます。

キリスト教会が十字架を掲げるのはこのためです。

私たちはキリストの十字架を掲げ、人々はキリストに引き寄せられてきます。

そのようにして神の栄光、神の臨在の輝きがこの地に輝き渡ります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

※ 皆様のお祈りを心から感謝します。
政府は緊急事態宣言を3月21日をもって終了することを決定いたしました。
21日(日)までは緊急事態宣言期間ですので、教会堂を封鎖します。礼拝および祈祷会は、YouTube にて引き続き配信(主日礼拝:毎日曜日10:25~、祈祷会:毎金曜日19:30~)させて頂きます。 ご協力を感謝します。
今後に関しては、緊急事態宣言の解除に伴い、教会堂の封鎖を28日(日)より解除したいと思います。
栄シャローム福音教会礼拝参加ガイドラインを参考にしてご出席をお願いします。
3/27(土)の墓前礼拝は予定通り行います。
ビブリオン、祈祷会は、参加ガイドラインに沿って4月から平常通り再開する予定です。
第三礼拝(18時から)は、今しばらく、感染予防の観点からお休みします。
礼拝と祈祷会のYouTubeによるライブ配信は継続する予定です。

ヨハネ 11章

「イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」」(11:40)

マルタはイエス様から

あなたの兄弟はよみがえります。

と言われた時、

終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。

と答えます。

イエス様はこの世の終わりの復活の話ではなく、、イエス様の力によってよみがえると言われます。

わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。

マルタは

はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。

と告白しますが、実際に、墓石をとりのけるようにイエス様が言われると常識を働かせて

もう臭くなっています。

と引き止めます。

イエス様は口先だけでなく信仰の行動を求めます。

信じるなら神の栄光を見る」と。

ヨハネ 10章

「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」(10:16)

イエス様の発言を理解するためには、エゼキエル書37:16以下の二つの杖を一つの杖とすると言う預言を理解する必要があります。

これは、バビロン捕囚の終わりの預言です。

「わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。・・・彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただ一人の牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしの掟を守り行う。」(37:22-24)

イエス様は、ご自身をこの預言の成就、メシア(しもべダビデ)とされたのです。

ヨハネ 9章

「彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。」(9:38)

イエス様は子なる神ですから、礼拝を受けるのにふさわしいお方です。

私たちは天使(黙示録22:8,9)や伝道者(使徒10:25,26)を礼拝することは許されていません。

しかし、イエス様は子なる神ですから、私たちの礼拝を受けてくださいます。

イエス様を信じているならば、イエス様を礼拝します。

信仰と礼拝は切り離すことはできません。

誰に礼拝を捧げているかで、誰を信じているかがわかります。

それはつまり、どのような祈りの生活をしているかで、どのように信じているかが分かるということでもあります。

教会では昔からこう言われています。

Lex orandi, lex credendi  (祈りの仕方、信仰の仕方)。

人が信じることは、その人の祈りの仕方で分かる。

ヨハネ 8章

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」」(8:58)

燃える柴の中からモーセを呼ばれた主なる神はご自分の名前を、

わたしは『わたしはある』という者である。」(出3:14)

と言われました。

ヘブル語では「ヤハウェ」、ギリシア語では「エゴー・エイミ」となります。

ですから、イエス様が

アブラハムが存在する前から『わたしはある』(エゴー・エイミ)

と言われた意味は、

「わたしは神である。昔から、今も、そしてこれからも」

と言うことです。

もちろん、その意味を理解したからこそ、当時のユダヤ人たちはイエス様を殺そうとしました。(10:33参照)

聖書がはっきり伝えていることは、イエス・キリストはご自身を神であると宣言されたと言うことです。

ですから私たちは、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神を信じています。

ヨハネ 7章

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(7:37)

イエス様は、飢え渇きをもってみもとに来て、聖霊の満たしを受けるように招かれました。

大衆伝道者ボンケ師は言います。

私はある時聖霊の力を信じない人々が集うキリスト教の集会で説教をするよう招かれました。

すると突然、説教中に聖霊が下りました。

人々は喜び始め、御霊に満たされて賛美し始めました。

聴衆を見ると、中央の辺りに聖霊にまったく触れられなかった三、四人が見えました。

彼らは超自然的な出来事に加わることができず、驚きの表情で周囲を見回していました。

その時ある考えが私の心に浮かびました。この人たちは石綿(アスベスト)・クリスチャンなのだと。

聖霊の火が下ったにも関わらず、彼らは燃えることが出来ませんでした。

飢え渇きがない燃えないキリスト者ではなく、燃えるキリスト者となれますように。

ヨハネ 6章

「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」(6:9)

イエス様が用いたのが少年のお弁当だったことに驚きを感じます。

少年が自分のお弁当を捧げたことも驚きですが、それを受けとめた弟子たちにも驚きます。

少年のお弁当を取り上げるなんてと思う人もいるかもしれません。

しかし、神はどんな小さき者の捧げものも蔑まれることはありません。

少年一人が満足できる量と思っていたのが、五千人が十分食べられる量だったというのです。

少年の捧げものは、労働者二〇〇日分の労賃以上の価値がありました。

私たちは断じて、「何の足しになるでしょう」と言ってはいけません。

神は私たちの捧げものを用いて大きな御業を現してくださいます。

主に期待して、捧げていきましょう。