ヨハネ 5章

「イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」」(5:6)

三八年間も病気に苦しんでいる人に対して、どうしてイエス様は「良くなりたいか。」と尋ねたのでしょうか。

LBはこの病気に苦しんでいる人の答えをこのように訳しています。

「もう、あきらめているんです。」

病気が治ると言う池のところにいたのですから、良くなりたいと言う願いを捨てていたとは思えません。

しかし、もう無理だと、自分にはできないと、心のどこかであきらめてしまっていたのです。

しかし、

「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

イエス様は私たちに信仰を求められます。

私たちは希望を告白し、あきらめずに、主に期待して行きましょう!

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 4章

「イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」(4:50)

王室の役人はイエス様の言葉だけを信じ、一日の道のりを帰って行きました。

彼の願いは、彼の子どもが死なないうちに、イエス様が彼と一緒に来て、癒してくれることでした。

しかし、イエス様は一緒に来てはくれませんでした。

癒しの証拠も与えてはくれませんでした。

ただ一言、

行きなさい。あなたの息子は治ります。

と言われただけでした。

しかし、この役人は、このイエス様の言葉を自分のものとし、信じ、家路につきました。

彼は次の日まで、自分の息子が治ったことを知りません。

彼はイエス様のみことばの力を体験し、

彼自身も家の者たちもみな信じた。」(53節)

と聖書は言います。

私たちもこのみことば信仰が大事です。

聖書のみことばは生きていて力があります。

ヨハネ 3章

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(3:30)

バプテスマのヨハネの弟子たちは、人々がヨハネから離れてイエス様のところに行くことに懸念を抱きました。

しかし、バプテスマのヨハネは、自分の役割をよく理解していました。

彼はそれでもなお、イエス様を指し示しました。

これが、私たちの姿であるべきです。

私たちの役割も人々を自分の方に向けることではなく、イエス様の方に向けることです。

私たちの役割はイエス様の御名が高く掲げられることです。

イエス様の栄光だけが輝き、私たちの存在は薄れていくことです。

「私でなく、もっと主よ、あなたを」(more of You, less of me)

ヨハネ 2章

「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。」(2:9)

婚礼でぶどう酒が無くなると言うのは大問題でした。

イエス様は人々がイエス様を信じることができるように「最初のしるし」(11節)として水をぶどう酒に変えました。

それも良いぶどう酒に変えました。

イエス様は私たちが信じることができるように、今も水をぶどう酒に変えるような奇跡を行われます。

この奇跡を行うために、イエス様の言うことは何でもした給仕の者たちの存在があります。

水がめを水でいっぱいにし、それを宴会の世話役のところに持っていた給仕の者たちの存在があります。

水を汲んだ給仕の者たちしか知らない世界があります。

私たちも、この水を汲んだ給仕の者たちのように、イエス様が言われることを行うことができますように。
今日は東日本大震災から十年です。

神様がこの地を憐れみ、癒してくださいますように。

ヨハネ 1章

「ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」」(1:46)


「百聞は一見にしかず」と言いますが、キリスト教の伝道はまさにこのピリポが言ったように「来て、自分の目で確かめてください」というのが基本です。

信仰は強制されても意味がないからです。

自分でキリストのもとに来て、自分の目で確かめなければ、本当の意味で信じることはできないからです。

今、イエス様と出会うことができる場所は、イエス様のからだである教会です。

イエス様の存在感がある場所が教会です。

ですから、私たちは教会に、「来て、見てください」と誘います。

今はコロナ禍のために、なかなか教会堂に誘うことは難しいですが、教会のYouTubeのライブ配信(教会のYouTubeチャンネル)を勧めるのも一つの方法だと思います。

ルカ 24章

「二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」」(24:32)

この二人の弟子たちのように、聖書を読む時、聖書の説き明かし(説教)を聞くとき、心が内で燃えているでしょうか。

イエス・キリストは、死からよみがえり、今、生きておられます。

今も、聖書のみことばをもって私たちに語られています。

神のみことばは生きていて、力があります。

もし、聖書のみことばを読んでも心が冷えているとするならば、私たちが間違ったところにイエス様を探しているからかもしれません。

天使たちは言います。

あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。

聖書のみことばは、単なる死んだ人の言葉ではありません。

生ける神のみことばです。

私たちが祈りつつ読む時、私たちの心は不思議に燃えます。

ルカ 23章

「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)

イエス様と共に二人の犯罪人が十字架に架けられていました。

一人はイエス様を罵り言いました。

「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」。

それに対して、もう一人は言いました。

おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」

そして、イエス様に言いました。

「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

するとイエス様は驚くような発言をします。

「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる。」

イエス様を信じる者は誰でもイエス様と共にパラダイスに行くことができます。

この犯罪人がイエス様を信じることができた理由は神への恐れであったことを、私たちは心に留めたいと思います。

ルカ 22章

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:31,32)

失敗は終わりではありません。

イエス様はペテロをはじめ弟子たちが皆、自分のことを裏切ることを知っていました。

「あなたがたを」とあるようにここではペテロだけでなく、全員イエス様から引き離されることが聞き届けられたと言います。

イエス様は

「そんな弱い信仰ではダメだ」

と責めたのではなく、

「信仰がなくならないように祈りました。」

と言います。

そして、

「立ち直ったら、他の兄弟たちを励ますように」

と言われました。

私たちが信仰を失わないように祈られるイエス様は、私たちが励まし合うことを願っています。

今日は主の日。

共に主に礼拝を捧げ、励まし合いましょう。

ルカ 21章

「イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(21:1-4)

イエス様が献金箱に献金を捧げている姿を見ておられるということを心に留める必要があると思います。

そして、この箇所が教えているように、イエス様は金額ではなく、その捧げる姿勢に心を留めていることに意識する必要があると思います。

余りものではなく、最高のものを捧げようとする姿勢を神は祝福されます。

神に持てるものを捧げていく人には、天の窓が開かれます。

人間的な考えで、貧しい人からその機会を奪うならば、祝福の機会を失わせてしまいます。

ルカ 20章

「イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。」(20:17)

9節以下の「悪しき農夫のたとえ」は、歴史的に反ユダヤ主義の根拠として曲解されてきました。

ぶどう園をイスラエルと理解し、イスラエルにとって代わって教会の時代となったという「置換神学」と呼ばれる神学が生み出されました。

しかし、このような解釈は飛躍しすぎであり注意すべきです。

神はユダヤ人を拒絶したわけではありません。

ここでイエス様が問題にしているのは当時の特権階級の宗教指導者たちです。

彼らが神の働きに反していることを伝えたのです。

彼らは形骸化した神殿宗教にこだわり、「要の石」であるイエス様を捨てたと言われたのです。

神の国の「要の石」はイエス・キリストです。