使徒 24章

「しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言った。」(24:25)

使徒の働きの22章から26章まで裁判の記事が続きます。

22章では民衆の前で弁明し、

23章でサンヘドリンというイスラエルの宗教指導者たちを前に弁明します。

24章は総督フェリクス、

25章では総督フェストゥス、

26章ではアグリッパ王の前で裁判が行われます。

裁判の場がパウロにとって福音宣教の場でした。

総督フェリクスはキリスト教信仰について知りたいと願い、パウロから話を聞きました。

しかし、彼の動機は「金をもらいたい下心」(26節)程度のものでしかありませんでした。

ですから、「折を見て」と、信じる機会を逃してしまいました。

「折を見て」いると機会を失います。

今日が救いの日です。

使徒 23章

「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。」(23:11)

使徒パウロは、もっとも信じ受け入れて欲しかった同胞のユダヤ人たちに拒絶され、落ち込んだのだと思います。

主がパウロの側に立って、励ましました。

「エルサレムでは大変だったけれども、よくわたしのことをあかししてくれた。さあ、今度は、ローマでわたしのことをあかししなさい。」

神は過去を脇に置かせて、未来に目を向けさせました。

私たちもパウロと同じように、仲間から拒絶され、見捨てられてしまうことがあります。

しかし、主は私たちを見捨てることはありません。

暗やみに囲まれたような時も、私たちのそばに立って、過去を脇に置かせ、未来に目を向けさせてくださいます。

主は言われます。

「勇気を出しなさい。あなたの人生には目的があります。」

使徒 22章

「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(22:16)

使徒パウロは、彼の長年の夢でもありました同胞への伝道のチャンスに、神学的論争ではなく、自分の個人的な体験、「証」を話しました。

誰かにイエス・キリストのことを伝えるのに一番力強い方法は、自分のイエス・キリストとの体験を語ることです。(ですから専門的な教育を受けていなくても伝道は可能です。)

イエス・キリストが自分の人生に何をし、何が変わったかを人々に語ることが証です。

自分が体験したことを誰も否定することはできないからです。

パウロのポイントは三つでした。

まず、彼がどういう人物であったか、彼の過去。

そして、彼の回心、彼の人生に神が介入されたこと。

最後に、これからのこと。

神がすべての人に福音を伝えるように命じたことを話しました。

パウロのように、いつでも自分の証を語る備えはできていますか。

使徒 21章

「彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。」(21:14)

当時のキリスト教会にとって使徒パウロの異邦人伝道の働きは、さらに発展が見込めるものでした。

ところがパウロは、もっとも危険な場所、エルサレムに行こうとしていました。

ですから仲間たちはパウロを止めようとしました。

「どうして、エルサレムに行こうとするのですか?教会はあなたを必要としているではないですか。あなたを歓迎する場所があるのに、どうして、あなたに危害を加えようとしている人たちのところに行こうとするのですか?」

パウロは言います。

「問題は彼らが私に何をするかではない。私の主、イエスが、私の従順を通して何をなされるかだ。」

私たちは状況ではなく神を中心に生きる必要があります。

時として、信仰者のあるべき姿は、「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐむことです。

使徒 20章

「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」(20:32)

パウロの惜別説教が記されていますが、ここにパウロの「みことば信仰」を見ることができます。

聖書の御言葉が、私たちを成長させ、強くします。

メッセージ訳ではこう訳しています。

今、私はあなたを神に委ねます。私たちの素晴らしい神に。神の恵みの言葉は、あなたを神の望む姿に変え、この聖なる友人たちの共同体の中であなたが必要としているすべてのものを与えることができます。

私たちが必要としているすべてのものが神の御言葉の中にあります。

ですから、私たちは聖書全体を余すところなく学び続ける必要があります。(27節参照)

偽教師が忍び込み、群れを荒らし回る危険があります。

ですから、しっかりと聖書を学ぶ必要があります。

使徒 19章

「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」(19:6)

パウロがエペソに来て、何人かの弟子たちに出会った時、何か違和感を感じたのでしょうか、パウロはこんな質問をしました。

信じたとき、聖霊を受けましたか」(2節)

それに対する応答は、

いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません

でした。

さらに、ヨハネのバプテスマを受けたと言う話だったので、主イエスの名によってバプテスマを授けるのですが、その後、パウロは手を置いて、聖霊を受けるように祈ります。

聖書の神は、父、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

イエス・キリストを信じる時、聖霊が信じる者の内に住われます。

そして、求めるならば、聖霊に満たされます。

イエス様が約束された助け主である聖霊が存在することも聞いたことがないと言うのは残念なことです。

聖霊を求めましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

使徒 18章

「その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。」(18:1)

パウロはギリシア哲学の中心地、アテネを去りコリントに行きました。

その時の様子をこのように説明しています。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。」(1コリント2:1-5)

パウロは哲学者たちとの議論を通して人間の知恵ではなく、神の力ということを学んだのだと思います。

使徒 17章

「そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。」(17:3)

パウロはテサロニケのユダヤ人会堂で、「聖書に基づいて彼らと論じ合った。」(2節)と言います。

聖書に基づく議論も聖書的な伝道方法の一つです。

パウロが説明し、証明しようとしたことは二つあります。

一つは、聖書が約束するメシア(キリスト)は、苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければなかったということです。

これはエゼキエル書37章後半に出てくる彼らの王となる主のしもべダビデ(37:25)のことと考えられます。

37章の前半は枯れた骨が生き返る幻なので、メシアは死者の中からよみがえらなければならないことを示唆していると考えられます。

そして証明しようとしたもう一つのことは、イエスがそのメシアだと言うことです。

使徒 16章

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」(16:10)

使徒の働きの著者ルカはこの箇所からパウロたちの宣教旅行に加わったと考えられます。

なぜなら、主語がこれまで「彼ら」(三人称)だったのが「私たち」(一人称)に変わるからです。

興味深いことは、ここに至るまでパウロたちは何度も聖霊に禁じられて軌道修正をしなければならなかったということです。

私たちの思い通りに物事が進まないことは必ずしも悪いこととは限りません。

聖霊が禁じられることには意味があります。

聖霊の導きに従ったパウロたちは、ルカという強力な旅の仲間と出会うことができました。

そして、このマケドニアからヨーロッパ宣教が開始されます。

目の前の扉が閉じる時、それは、新しい扉が開かれる時です。

使徒 15章

「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。─昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。」(15:16―19)

初代教会が決めたこと、それは、異邦人に対して難しくしないということでした。

その理由は、神が「倒れているダビデの仮庵を再び建て直す」という預言が成就したからだと言います。

その真意はローマ書1章に見ることができます。

この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。