詩篇 139篇

「あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。」(139:13)

この世界に、偶然生まれて来た人はひとりもいません。

この世界に存在するすべての人は、神が存在することを望まれたがゆえに存在しています。

「生まれる前から、まだ呼吸を始める前から、あなたの目は私に注がれ、私の生涯にわたるご計画も、練り上げられていたのです。」(16節LB)

私たちが母の胎内で構成されている時に、天は喜びに満ちていました。

主のみこころ、そのご計画のゆえに、一人一人は母の胎内で形成されていきました。

目を閉じて、主の御手が、母の胎内で自分を形作られている情景を思い浮かべてください。

私たちを形作り、私たちの存在を喜ぶ主の御顔を思い浮かべることができるでしょうか。

私たち一人一人目的をもって造られた、大切な存在です。

主の目には、私たちの存在は、高価で貴いのです。

詩篇 138篇

「まことに主は高くあられますが低い者を顧みてくださいます。しかし高ぶる者を遠くから見抜かれます。」(138:6)

聖書の神の偉大さは、すべてを超越した高き存在であるのにも関わらず、砕かれ、小さく、貧しくされた「低い者」を顧みてくださるところにあります。

自らの力を誇り、権力を振りかざす「高ぶる者」をしっかり見抜かれるところにあります。

それゆえに、「地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。」(4節)と詩人は言います。

このことを預言者イザヤは次のように言っています。

「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」(57:15)

詩篇 137篇

「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。」(137:1)

詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。

しかし、彼の心はいつもシオンにありました。

シオンはエルサレムにある神殿の丘のことです。

ですから、彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。

エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。

つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。

私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?

個人的にも神は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ18:20参照)

主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。

主日礼拝を、祈祷会を大切にしましょう。

主は臨んでくださいます。

詩篇 136篇

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」(136:1)

「いつくしみ深い」と訳された単語は、英語の「GOOD」にあてはまる「トーヴ」という単語です。

私たちが信じている神は「トーヴ」、善い神です。

私たちは、主に感謝する理由がたくさんあります。

この詩篇ではくりかえし「なぜならば、主の信実の愛(へセド)は永遠だから」(私訳)と理由を述べます。

私たちの神は善い神であり、神の信実の愛は永遠です。

聖書は言います。

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実(へセド)を尽くし続けた。』」(エレミヤ31:1)

この「誠実」と訳された単語が、今日の箇所で「恵み」と訳された「へセド」(信実の愛)です。

私達を永遠の愛をもって愛される主は、永遠に信実の愛を尽くし続けるお方です。

このお方に感謝を捧げましょう!

いよいよ、きょう!

きょうはペンテコステ。

歴史的な教会の誕生日に開拓40周年献堂20周年を迎えることができることは神様の不思議な導きであると思います。

ほぼ開拓に近い状態で、しかも結婚直後に主任牧師家族が帰国してしまうという状況は22歳の私にとって正直まったく予想もしていなかったことでした。

すでに教会運営の基盤ができていた母教会では経験したことがないことばかり。

ですから最初からわたし自身が小山牧師に協力的だったかと言えば決してそうではありませんでした。

今考えるとまるでヨブの妻のようなセリフを吐いたこともあります。

でもどんなときでも誠実に主と人々に仕える夫を傍らで見続ける中で、私の心も次第に変えられていきました。

だからこの教会に小山牧師が立てられていることを心から感謝します。

妻としては『今日までお疲れさまでした』と言ってあげたいです。

地上での働きがあとどれくらい私たちに任されているかは分かりませんが、皆さまと共にキリストの体をこれからも建てあげていきたいと願います。

きょうまでありがとうございました。

これからもどうぞよろしくお願いします。

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 135篇

「主は、地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される。」(135:7)

聖書の神は大いなるお方、その望むところをことごとく行われるお方。

大自然を創造し、保持される偉大なお方。私たちは、自分のイメージで自分の神を作ってしまっていないでしょうか。

人間が作る神は、「口があってもしゃべれず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、呼吸もしていない」(15-17節LB)神です。

有限な人間が作った神は、有限な人間が考えられる範囲内でしか存在しません。

まことの神、聖書の神は私たちを造られた創造主です。

無から有を生じさせる神です。

たとえ今、暗闇しか見えなくても、「光あれ!」と光を灯すことができる神です。

道が見えなくても、道を造ってくださる神です。

今日は開拓四〇、献堂二〇周年記念礼拝。

今日まで守り導いてくださった偉大なる主の真実に感謝を捧げましょう!

今日はまたペンテコステ。

共に聖霊を求めましょう。

詩篇 134篇

「さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。」(134:1)

「都上りの歌」は、この詩によって完結します。

「主の家」で主に仕え、賛美を捧げることがゴールということです。

ウェストミンスター小教理問答書に、

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

とあるように、神に栄光を帰す生き方がゴールです。

神に賛美をささげる方法の一つは手を上げることです。

私たちが両手を上げる理由の一つは、降参を表すためです。

絶対者なる神に降参して、すべてを明け渡すことを象徴して手を高く上げます。

私たちの人生には自分の力ではどうしようもないことがたくさんあります。

神の前に両手を上げて、「主よ、あなたに降参します!」と叫ぶ時、私たちは神を神として認め、主なる神をほめたたえているのです。

私たちは主なる神をほめたたえるために生きています。

詩篇 133篇

「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(133:1-3)

この詩篇は「都上りの歌」と呼ばれる巡礼詩なので、「兄弟たち」とは、エルサレム神殿に集う人々と考えられます。

みんな仲良く、共に主なる神を礼拝することは、良いこと(トーヴ)だと言います。

集まることは、キリスト教が成立した当初から大切にされてきていることです。

信仰は個人的な側面がありますが、集まるということを過小評価するのは聖書的ではありません。

私たちがイエス・キリストにあって集まるそのところに、神はとこしえのいのちの祝福を命じられるとあります。

ここに、人知を超えた神の祝福の世界があります。

詩篇 132篇

「しかし彼の上には王冠が光り輝く。」(132:18)

「主はシオンを選び、それをご自分の住まいとして望まれた。「これはとこしえにわたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせる。」(13-15節)

とありますが、シオンの丘に建てられたエルサレム神殿は七〇年にローマ帝国によって壊されました。

この約束はどうなってしまったのでしょうか。

イエス様は言われました。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)

主が「ここにわたしは住もう」とおっしゃられた場所、それが教会です。

神は今、教会を選び、教会をご自分の住まいとして望まれました。

だから聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

詩篇 131篇

「イスラエルよ。今よりとこしえまで、主を待ち望め。」(131:3)

詩人は言います。

「今こうして、乳離れした幼児のように、主の前で静かにしています。もう、あれこれと願い事を並べ立てるのはやめました。」(2節LB)

これは、幼児がお母さんの存在が感じられるその所で完全に満足しきっている状況です。

私たちも神の臨在の中で、同じように満足できます。

これが神への完全な信頼へと導きます。

それで詩人は言います。

「イスラエルよ、おまえもまた、今だけでなく、いつまでも静まって主に信頼していなさい。」(LB)

生ける神の臨在は、神への完全な信頼に私達を導きます。

イエス様の臨在の中で私たちは本当の満足を得ることができます。

だから、主にヘリくだり、祈りましょう。

「主よ。私は思い上がったり、横柄な態度をとったりしません。何でも知っているふりをしたり、他の者より自分がまさっていると考えたりすることもしません。」(1節LB)