詩篇 137篇

「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。」(137:1)

詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。

しかし、彼の心はいつもシオンにありました。

シオンはエルサレムにある神殿の丘のことです。

ですから、彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。

エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。

つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。

私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?

個人的にも神は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ18:20参照)

主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。

主日礼拝を、祈祷会を大切にしましょう。

主は臨んでくださいます。

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