詩篇 148篇

「火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行う激しい風よ。」(148:8)

私たちは主を賛美するために存在しています。

聖書は言います。

「後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」」(詩篇102:19新共同訳)

ただ、私たちはこのことも覚えておく必要があります。

それは、「みことばを行う激しい風よ。」とあるように、神のみことばが行われるために、激しい風のような試練があるということです。

御言葉を成し遂げる嵐よ」(新共同訳)

とあるように、嵐のような状況で、神の約束が成し遂げられるということがあるということです。

ですから、私たちはどんな時でも賛美することを学ぶ必要があります。

「主をほめたたえよ」と賛美をすること(ハレル)が命令形なのはそのような理由があると考えられます。

詩篇 147篇

「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。」(147:1)

賛美の歌を歌うことは良いこと(トーヴ)です。

楽しいこと、喜ばしいことです。

なぜなら、主なる神は私たちの賛美を受けるのにふさわしいお方だからです。

人は腕力で神を振り向かせることはできません。

10節をL Bではこう訳しています。

「どんなに足の早い馬でも、神から見れば、歩みの遅いかたつむりと同じです。どんなに腕力を誇る人でも、神からすれば、赤ん坊の手をねじ伏せるより簡単なのです。」

神が注目されるのは、神を畏れ、神に賛美の歌を歌う人です。

「神を畏れる人たちは神の注目を得ます。彼らは神の強さに頼ることができます。」(11節MSG)

詩篇 146篇

「幸いなことよ、ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人。」(146:5)

この詩篇は神以外の何かに頼ることのむなしさが記されています。

『人の助けをあてにしてはいけません。どんなに偉大な指導者も、頼りにはならないのです。人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて無になるのです。』(3,4節LB)

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。

しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあります。

神は私たちが神以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。

詩篇の中で、繰り返し神に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかったことが挙げられると思います。

失敗しながら、神にのみ信頼することを学びます。

詩篇 145篇

「私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を、世々限りなくほめたたえますように。」(145:21)

この詩篇はヘブル語のアルファベット順に始まる「アルファベット詩」です。

18節をメッセージ訳ではこう訳しています。

「神はそこにおられる。祈るすべての人のために。本気で祈っているすべての人のために。」

祈りは単なる気休めではありません。

本気で祈る、その祈りに神が答えてくださることを私たちは体験します。

後のユダヤ教においてこの詩は日毎の賛美の祈りに用いられたと言います。

タルムードには、この詩を日に三度口にする者には、来るべき世界で神の子となることが約束されています。

興味深いことは、「主の祈り」と通ずる面がこの詩にあることです。

「聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。」(21節)は「御名があがめられますように」(原意は「御名を聖とする」)と重なります。

毎日、主の祈りを祈ることをお勧めします。

 

天にまします我らの父よ

願わくは御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたまえ

みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ

我らの日用の糧を今日も与えたまえ

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく

我らの罪をも赦したまえ

我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ

国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり

アーメン

 

詩篇 144篇

「主は私の恵み、私の砦、私のやぐら、私の救い主、私の盾、私の避け所、私の民を私に服させる方。」(144:2)

ダビデはイスラエルの国の王でした。

しかし、その権威は神から来ることを認識していました。

LBではこのように訳しています。

「いつも恵み深く、愛を注いでくださる主は、私の要塞であり、びくともしないやぐらです。私を救ってくださる神は、盾となって立ちはだかってくださいます。こうして、神は民を私に服従させてくださるのです。」

そして、永遠の神に対して、有限な人の儚さをダビデは歌います。

「人は息にすぎず、その日々は影のように過ぎ去ります。」(4節)

しかし、聖書は死んだら終わりだとは言いません。

イエス・キリストは死の力を打ち破り、復活され、永遠のいのちがあることを示されました。

聖書は言います。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)

詩篇 143篇

「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれ一人、あなたの前に正しいと認められないからです。」(143:2)

神は義なる神であり、誰ひとり、神の前では正しいと認められる人はいません。

だからLBではこのように訳しています。

「私を裁判にかけないでください。あなたほど完全なお方はいないのですから。」

聖書は明確です。

「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)

だから、詩人の祈りは「あなたの真実と義によって私に答えてください。」(1節)

私たちの希望は、自分ではなく、神の真実、神の義にあります。

カルバリの十字架に現された神の真実、神の義にあります。

服部嘉明(よしあき)先生

献堂記念礼拝が無事終わりようやくちゃんと悲しむ時間を持っています。

東京基督教大学一年時、神学入門の指導をしていただきコイノニアメンバーに加わったことがきっかけで、その後約30年間毎年欠かさずクリスマスカードと誕生日カードを送り続けてきてくださった服部嘉明先生が4月15日に天に召されたのです。

しかも私がそのことを知ったのはひと月近くも経ってから。

とてもショックでした。

小山先生が卒業したノースウエスト大学近くの湖畔に引退後は居を移し、そのこともあってか牧会での行き詰まりを吐露した折には何度もシアトルに来ることを勧めてくださったことでほっと肩の力が抜けたことを今でも思い出します。

落ち着いたらシアトルに行きたいです、といつもお便りで書いていたのに結局地上でお目にかかることはかなわなくなってしまいました。

大学時代、唯一F(落第点)を取った科目(次年度クリアしましたが、、、)が服部先生の神学入門でした。

出来の悪い生徒だった私にも分け隔てなく接してくださった服部先生は信仰者として、人として、これからもずっと私の模範です。  (小山晶子牧師夫人)

詩篇 142篇

「声をあげて、私は主に叫びます。声をあげて、私は主にあわれみを乞います。」(142:1)

詩篇142篇の表題には、「ダビデが洞窟にいたときに」と記されています。

ダビデはサウル王から命を狙われ、洞窟に隠れて生活していた時期があります。

その時、ダビデがとった行動は、主に叫ぶことでした。

「どうか、私を牢獄から連れ出し、あなたへの感謝にあふれさせてください。私が助けられたことを知れば、神を敬う人々は、あなたの力を喜ぶでしょう。」(7節LB)

確かに主はダビデの叫びに耳を傾け、ダビデは助けられ、洞窟から出て、王となります。

私たちの人生にも洞窟のような、牢獄のような中に閉じ込められているように感じる時があると思います。

ダビデがそうしたように主に叫ぶなら、主は必ず助けてくださいます。

共に主に感謝を捧げることができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 141篇

「私の祈りが、御前への香として、手を上げる祈りが、夕べのささげ物として、立ち上りますように。」(141:2)

「御前への香」、「夕べのささげ物」は、神殿祭儀が念頭に置かれています。

すなわち、祈りが神殿祭儀と等しい機能を果たすようにという詩です。

確かに、そもそも神が求めていたのは神殿祭儀ではありませんでした。

聖書は言います。

「まことに、私が供えても、あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」(51:16,17)

大事なことは、動物のいけにえを捧げることではなく、へりくだって、心から主を慕い求めて祈ることだと言います。

事実、黙示録にはこう記されています。

「香は聖徒たちの祈りであった。」(5:8)

私たちの祈りは香として神の御前へと立ちのぼっています。神は私たちの祈りを用いて御業を行われるお方です。

詩篇 140篇

「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のために、さばきを行われることを。」(140:12)

「暴虐」(1節)と訳された単語は、多くの場合、社会的に力のある者たちが弱者を搾取、抑圧することを含意します。

不当な告発を受けた信仰者が主なる神に「正しい裁き」を祈り求める姿がここにあります。

神はモーセを通してイスラエルの民にこう告げました。

「裁判では人を偏って見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものだからである。あなたがたにとって難しすぎる事柄は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」(申命記1:17)

このみことばのゆえに詩人は言います。

「しかし主は、踏みにじられている人々を助け、貧しい者の権利を守ってくださいます。」(12節LB)