使徒 10章

「それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。」(10:38)

百人隊長のコルネリウスはユダヤ人ではありませんでした。

しかし、

「彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。」(2節)

そんなコルネリウスの祈りと施しは、覚えられていると御使いは言いました。(4節)

ペテロは幻を通して、

「どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。」(28節)

「どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。」(35節)

しかし、それはイエス・キリストを信じなくてもいいということではありません。

だから、使徒ペテロは遣わされました。

使徒 9章

「すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。」(9:11)

サウロ(後のパウロ)は、クリスチャンを迫害するために向かっていたダマスコ途上でキリストと出会い、地に倒されました。

目が見えなくなった彼は祈っていました。

そこにアナニアが遣わされました。

アナニアは今までサウロがクリスチャンにどんなにひどいことをしていたかを聞いていました。

しかし、神はそんなサウロを「選びの器」だと呼び、アナニアを遣わします。

アナニアの思いは複雑だったと思います。

しかし、彼は神に従順し、サウロの上に手を置いて祈りました。

するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。」(19,20節)

使徒パウロ誕生の背後にアナニアの従順があります。

ええ天気や~

ひっさしぶりの秋晴れ。

ほんまにすがすがしいですね。

曇天続きで頭も痛いし、洗濯物も乾かないしと散々な数週間でしたがええ天気にようやくテンションが上がってきた人も多いのではないでしょうか。

あまりにも気持ちよかったのでいたちがわを散歩しようと裏にいったら大きなスズメバチがぶんぶんと羽音をたてながら飛んでいるではありませんか。

そう、10月はスズメバチの活動が活発化する時期でもあるのです。

おおきくてころんとしたドングリの木の近くにも巣があるようで近づけません。

でも、、、こんな穏やかな日常と同じ時間に戦争で命を落としている人がいるという現実に戸惑ってもいます。

重石のようにずっと心にある苦しさ。

主よ、いつまでですか。

お願いです、あなたがどうかご介入くださいと祈っているのはわたしだけではないと思います。

最近、佐藤彰先生の『祈りから生まれるもの』という本を読み直しています。

祈りについて漠然としていて良く分からない、意味があるのかと思っている人がいたら是非お勧めしたい一冊です。

秋の夜長、読書の秋ですから!

 (小山晶子牧師夫人)

使徒 8章

「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」(8:4)

ステパノの殉教を契機に、

「エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。」(1節)

と言います。

しかし、マイナスは必ずプラスになります。

迫害されて、散らされた信徒たちは、追放されたその地で福音を伝えたため、結果的に福音が広がっていくことになったというのです。

神はマイナスに見える出来事を用いて、御業をなされます。

神の力は私たちの弱さのうちに完全に現されます。

粉々になってしまった破片を用いて、神は美しいものを生み出されます。

ですから、私たちは目の前の状況ではなく、力ある神を見上げる必要があります。

神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

使徒 7章

「するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。」(7:2)

七章のステパノのメッセージは、旧約聖書をまとめたものですが、

『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」(6:14)

という証言に対する弁明でした。

アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセに言及し、旧約聖書が指し示したのがイエス・キリストであると言います。

そして、イスラエルの歴史を通してユダヤ人たちが、

いつも聖霊に逆らっています。」(51節)

と立ち返りを訴えました。

ところが、宗教指導者たちは悔い改めるどころか、激昂してステパノに石を投げつけて殺してしまいました。

彼らは、自分たちが正しいと思う慣習を守ることの方が聖書よりも大事になってしまっていたのです。

それで、自らの罪を認めることができませんでした。

聖霊に逆らうことがありませんように。

使徒 6章

「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(6:3,4)

初代教会には、ヘブル語を使うユダヤ人とギリシア語を使うユダヤ人がいました。

当時の公用語はギリシア語だったその影響が、国際都市となっていたエルサレムの状況が窺い知ることができます。

共同体の運営の難しさは昔も今も変わりません。

教会運営に必要なのは、御霊と知恵に満ちた、評判の良い信徒たちです。

こうして使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念することができるようになりました。

役割分担がうまくなされた教会は、成長していきました。

ここで選ばれた七人は皆男性ですが、1テモテ3:11にあるように、この奉仕につく女性もいました。(cf. ローマ16:1のケンクレアの教会のフィべも女性)

完全な教会はありません。

助け合い、補い合い、このようにしてキリストの命令を守ることを学びます。

使徒 5章

「しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。」(5:29)

一五二一年ウォルムスの帝国議会で、マルチン・ルターは言いました。

「聖書の証言と明白な根拠をもって服せしめられないかぎり、私は、私が挙げた聖句に服しつづけます。私の良心は神のことばにとらえられています。なぜなら私は、教皇も公会議も信じないからです。それらはしばしば誤りを犯し、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策なことでもないからです。神よ、私を助けたまえ、アーメン。」(徳善義和著「マルティン・ルター」岩波新書)

どんなに脅されても、「人に従うより、神に従うべき」と立ち上がった人たちによってこの世界に神の御国がもたらされてきたことを私たちは忘れてはいけないと思います。

十月三一日は宗教改革記念日です。

使徒 4章

「主よ。今、彼らの脅かしをご覧になって、しもべたちにあなたのみことばを大胆に語らせてください。また、御手を伸ばし、あなたの聖なるしもべイエスの名によって、癒やしとしるしと不思議を行わせてください。」(4:29,30)

迫害の中で、初代教会の使徒たちが願ったことは、御言葉を大胆に語ることと、イエスの名によって、癒しとしるしと不思議を行うことでした。

私たちが使徒の働きの教会を目指すのであれば、同じ強調点を持つべきです。

第一の強調点は、聖書の御言葉を大胆に語ることです。

聖書の御言葉は力があります。

生ける神の御言葉だからです。

第二の強調点は、イエス様の御名によって病気の癒しを祈ることです。

神の力ある奇跡の御業を信じて祈ることです。

神は私たちの祈りを用いて、今も、癒やしとしるしと不思議を行われます。

使徒 3章

「すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」」(3:6)

実話かどうかは分かりませんが、こういう話があります。

トーマス・アクイナス博士が教皇イノセント二世を訪ねた時の話です。

その時教皇は、莫大な額のお金を勘定していました。

教皇は言いました。

「博士、教会は『金銀は私にはない』とはもう言いませんね。」

トーマス博士は言いました。

「そうですね。そして教会は、『イエス・キリストの名によって立ち上げり、歩きなさい』と言うこともないですね。」

ペテロは驚いた人々にこう言いました。

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」(16節)

教会はイエスの名を宣言する所です。

使徒 2章

「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(2:38)

ペンテコステの日、使徒ペテロのメッセージを聞いて心を刺された人々はペテロたちに言いました。

「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37節)

ペテロは、明確に言いました。

「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」(38,39節)

昔も今も変わりません。

私たちが求められていることは、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、水のバプテスマを受けることです。

そうすれば、聖霊を受けます。