たまご三度(みたび)

なんということでしょう。亀のジェニーがまたまた卵を産みました。いずれの産卵にも立ち会うことができなかったことは痛恨の極みですが、成長をこれからも見守っていきたいと思います。
ところで最近、お天気の変化が目まぐるしいですね。青空かと思えばスコールのような激しい雨、突然やんだら猛暑、、、。明らかに自然界における何らかの変化を感じます。30年近く前、8月のエリコで体験した気温47度は、それまで聞いたこともないような数字でしたが、先日シアトルで同じ気温だったことを聞きぞっとしました。わたしたち人間は神様からこの地球の管理を任されていますが、その役割は残念ながら果たせていません。緻密なバランスで保たれている地球のような星は、宇宙をいくら探しても今のところ他にありません。昨日、コリントを調べようとグーグルアースを使ったのですが、マクロの(大きな)視点から地球を見ることも良い方法だと思いました。神様が「非常に良かった」と言われたこの星を、今週も大切に歩みましょう。(小山晶子牧師夫人)

1ヨハネ 4章

「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(4:12)

聖書ははっきりと愛の起源は神であると言います。

愛は神から出ているのです。」(7節)

神は愛だからです。」(8節)

私たちが互いに愛し合うことができるとするなら、それはまず神が私たちを愛してくださったからです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(10節)

だから、神の愛のゆえに互いに愛し合うことが命じられます。

神は互いに愛し合うその場所にとどまられます。

平気で批判し合い、傷つけあい、裁き合うその場所に、神はとどまられません。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」(16節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1ヨハネ 3章

「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」(3:23)

神の命令、それは、神の御子イエス・キリストを信じることと、互いに愛し合うことです。

御子イエス・キリストの名を信じ」ると言う意味は、イエス・キリストと言うお方のすべてを信じることです。

その御業を信じることです。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

互いに愛し合う」は現在形が使われていて、継続的な姿勢を意味します。

ですから、信じればいいという話でなく、愛し合う姿勢が命じられています。

互いの存在を認め、大切に思うこと、これは神の命令です。

1ヨハネ 2章

「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。」(2:9-11)

イエス様は言われました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:35)

残念ながら、教会はイエス様の教えを真剣に受けとめず、反目しあってきたがゆえに、人々から認められなかった歴史があります。

憎しみは何も生み出しません。

批判し合う集まりに、キリストを見出すことはできません。

キリストにあって愛し合う集まりに人は光を見出し、キリストを見出すことができます。

1ヨハネ 1章

「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」(1:8-10)

聖書は「すべての人は罪を犯し」(ローマ3:23)たと言います。

義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と。

私たちは誰一人「罪を犯したことがない」と豪語することはできません。

イエス・キリストの十字架は私たちが皆、赦しが必要であることを示しています。

神は私たちを裁きたいのではなく、赦しを与えたいのです。

だから、イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。

私たちが今求められていることは、素直に神に自分の罪を告白し、神の赦しを受け取ることです。

2ペテロ 3章

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(3:9,10)

この世界の終わりに、キリストは再び帰って来られます。

その日は、「盗人のように」とあるように、思いがけない時にやってきます。

明日、その日が来ても私は驚きません。

私たちは、サッカーで言うところのロスタイムに生きているからです。

いつ、終了の笛が吹かれてもおかしくない時代に生きているのです。

神が終了の笛を吹かれます。

イエス様が誕生されてから二〇〇〇年を経た今も、まだ、笛が吹かれていない理由は、神のあわれみです。

ひとりでも滅びることを望まない神は、すべての人が悔い改めることができるように、忍耐されていると言います。

しかし、その日は必ず来ます。

2ペテロ 2章

「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」(2:1)

聖書は偽教師の問題を意識するように言います。

異端と呼ばれる間違った教えは、ひそかに持ち込まれます。

その究極的な特徴は、主を否定することです。

イエス・キリストが三位一体の神の御子であることを否定して教えているならば、その人は明らかに聖書的には偽教師です。

私たちにはイエス・キリストが必要であるということを否定するなら、それは、明らかに偽教師です。

偽教師は、イエス・キリストよりも、自分を信頼させようとします。

イエス・キリストよりも組織を優先させ、自分たちの組織のために命をかけさせようとします。

彼らは、「主の権威を侮」(10節LB)り、神を恐れません。

2ペテロ 1章

「私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。」(1:16)

ペテロのメッセージの中心は主イエス・キリストでした。

それは作り話ではなく、彼自身、目撃者であったがゆえに、実体験に基づいていたがゆえに、確信をもって語ることができました。

イエス・キリストは復活され、今も生きておられます。

ですから、今も私たちはイエス・キリストを体験することができます。

イエス・キリストを信じ、受け入れ、求める者に、イエス・キリストはご自身を表してくださいます。

私は賛美の中でイエス様に出会いました。

イエス・キリストは現実のお方です。

たまごふたたび

前回の衝撃の産卵からひと月以上がたった今月初め、なんとジェニーが二つ目の卵を産みました。

通常は複数の卵を同時期に産むようなのですがさすがのんびり屋のジェニー、マイペースです。

最近あまりの暑さに庭をしっかり見ていなかったのですがいつのまにかブドウは色づき、ミニトマトは収穫できる状態になっています。

昼間の蝉の大合唱と共に夕方には鈴虫の声も聞こえてくるようになりました。

ほんの少しですが秋の気配を感じます。

けれどもコロナ禍での二度目の夏は、私たちを落ち込ませ、教会は元気をなくしているように感じます。

私たちの生きている世界がいかに不確かで、不安定であるかを嫌というほど思い知らされています。

これほど本格的な信仰のテストが今まであったでしょうか?

主の御言葉にしっかりと錨を降ろし、嵐が過ぎ去るのを待ちましょう。

時にはパウロが船員たちに勧めたように積み荷を捨てなければならないときもあるでしょう。

いまこそあなたがつかんで頼りとしているものを手放すときなのかもしれません。

(小山晶子牧師夫人)

1ペテロ 5章

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(5:7)

聖書のメッセージは一貫しています。

神は私たちのことを気にかけておられます。

私たちに関心をもっておられます。

私たちを愛し、私たちを大切に思っておられます。

だから、聖書は言います。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)

私たちの重荷、私たちの思い煩いを主にゆだねるように聖書は言います。

ゆだねる方法、それは、祈りです。

祈りをもって私たちは神にお任せすることができます。

有名な「いつくしみ深き」の原詩にこうあります。

ああ、私たちは何と平安をよく失うのだろう。

ああ、どんなに必要のない痛みを背負っていることだろう。

祈りをもって神にすべてをもっていかないために
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。