ヨハネ 2章

「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。」(2:9)

婚礼でぶどう酒が無くなると言うのは大問題でした。

イエス様は人々がイエス様を信じることができるように「最初のしるし」(11節)として水をぶどう酒に変えました。

それも良いぶどう酒に変えました。

イエス様は私たちが信じることができるように、今も水をぶどう酒に変えるような奇跡を行われます。

この奇跡を行うために、イエス様の言うことは何でもした給仕の者たちの存在があります。

水がめを水でいっぱいにし、それを宴会の世話役のところに持っていた給仕の者たちの存在があります。

水を汲んだ給仕の者たちしか知らない世界があります。

私たちも、この水を汲んだ給仕の者たちのように、イエス様が言われることを行うことができますように。
今日は東日本大震災から十年です。

神様がこの地を憐れみ、癒してくださいますように。

ヨハネ 1章

「ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」」(1:46)


「百聞は一見にしかず」と言いますが、キリスト教の伝道はまさにこのピリポが言ったように「来て、自分の目で確かめてください」というのが基本です。

信仰は強制されても意味がないからです。

自分でキリストのもとに来て、自分の目で確かめなければ、本当の意味で信じることはできないからです。

今、イエス様と出会うことができる場所は、イエス様のからだである教会です。

イエス様の存在感がある場所が教会です。

ですから、私たちは教会に、「来て、見てください」と誘います。

今はコロナ禍のために、なかなか教会堂に誘うことは難しいですが、教会のYouTubeのライブ配信(教会のYouTubeチャンネル)を勧めるのも一つの方法だと思います。

ルカ 24章

「二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」」(24:32)

この二人の弟子たちのように、聖書を読む時、聖書の説き明かし(説教)を聞くとき、心が内で燃えているでしょうか。

イエス・キリストは、死からよみがえり、今、生きておられます。

今も、聖書のみことばをもって私たちに語られています。

神のみことばは生きていて、力があります。

もし、聖書のみことばを読んでも心が冷えているとするならば、私たちが間違ったところにイエス様を探しているからかもしれません。

天使たちは言います。

あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。

聖書のみことばは、単なる死んだ人の言葉ではありません。

生ける神のみことばです。

私たちが祈りつつ読む時、私たちの心は不思議に燃えます。

ルカ 23章

「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)

イエス様と共に二人の犯罪人が十字架に架けられていました。

一人はイエス様を罵り言いました。

「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」。

それに対して、もう一人は言いました。

おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」

そして、イエス様に言いました。

「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

するとイエス様は驚くような発言をします。

「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる。」

イエス様を信じる者は誰でもイエス様と共にパラダイスに行くことができます。

この犯罪人がイエス様を信じることができた理由は神への恐れであったことを、私たちは心に留めたいと思います。

ルカ 22章

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:31,32)

失敗は終わりではありません。

イエス様はペテロをはじめ弟子たちが皆、自分のことを裏切ることを知っていました。

「あなたがたを」とあるようにここではペテロだけでなく、全員イエス様から引き離されることが聞き届けられたと言います。

イエス様は

「そんな弱い信仰ではダメだ」

と責めたのではなく、

「信仰がなくならないように祈りました。」

と言います。

そして、

「立ち直ったら、他の兄弟たちを励ますように」

と言われました。

私たちが信仰を失わないように祈られるイエス様は、私たちが励まし合うことを願っています。

今日は主の日。

共に主に礼拝を捧げ、励まし合いましょう。

ルカ 21章

「イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(21:1-4)

イエス様が献金箱に献金を捧げている姿を見ておられるということを心に留める必要があると思います。

そして、この箇所が教えているように、イエス様は金額ではなく、その捧げる姿勢に心を留めていることに意識する必要があると思います。

余りものではなく、最高のものを捧げようとする姿勢を神は祝福されます。

神に持てるものを捧げていく人には、天の窓が開かれます。

人間的な考えで、貧しい人からその機会を奪うならば、祝福の機会を失わせてしまいます。

ルカ 20章

「イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。」(20:17)

9節以下の「悪しき農夫のたとえ」は、歴史的に反ユダヤ主義の根拠として曲解されてきました。

ぶどう園をイスラエルと理解し、イスラエルにとって代わって教会の時代となったという「置換神学」と呼ばれる神学が生み出されました。

しかし、このような解釈は飛躍しすぎであり注意すべきです。

神はユダヤ人を拒絶したわけではありません。

ここでイエス様が問題にしているのは当時の特権階級の宗教指導者たちです。

彼らが神の働きに反していることを伝えたのです。

彼らは形骸化した神殿宗教にこだわり、「要の石」であるイエス様を捨てたと言われたのです。

神の国の「要の石」はイエス・キリストです。

ルカ 19章

「主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。」(19:22)

このしもべの問題は、主人を誤解していたということです。

1ミナという高額(一ミナは当時の約百日分の労賃。)なお金を預けていた真意を考えなかったのです。

つまり、私たちの神観(神学)は、とても重要であるということです。

私たちが神をどのような方であると認識しているかで、私たちの人生は変わります。

聖書が教える神は、私たちを愛し、私たちに関心を持っておられる、創造主なる義なるお方です。

私たちが与えられている賜物は神の栄光のために用いるためにあります。

ルカ 18章

「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。」(18:1)

聖書は明確に、絶えず祈り、祈ることをやめてはいけないことを教えています。

神は私たちの祈りを聞き、私たちの祈りを用いられるお方だからです。

裁判官とやもめのたとえ話は、たとえ話のゆえに大袈裟に描かれています。

裁判官の道徳的な問題に引っかかってはいけません。

たとえはたとえでしかないからです。

大事なポイントはやもめのようにあきらめないことです。

イエス様は言われました。

「ただ問題は、メシヤのわたしが帰って来る時、いったいどれだけの人が信仰を持って祈り続けているかです。」(8節LB)

私たちはこの世の常識に打ち負かされて、神への期待を失い、祈ることをあきらめていないでしょうか。

今は恐れの時ではありません。

信仰の時です。

いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝しましょう!

ルカ 17章

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」」(17:20,21)

「神の国」とは、神の支配、統治を意味します。

パリサイ人たちは、もうすぐ神が自分の民を異教徒の支配から救い出し、神が治める独立国を立て直してくださるという希望を持って、国家的刷新運動を繰り広げていました。

イエス様はそんなパリサイ人たちが考える「神の国」理解を一蹴しました。

「あなたがたのただ中にある」と、

今この時、

互いの間に神の支配、統治を認めることが大切だと諭しました。

神の国は、神の支配を認める人たちのただ中にあります。

私たちは生ける神が統べ治めておられることを宣言し、人々が神の統治を受け入れることができるように祈り求めましょう。