マタイ26:1-30

「するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」(10節)

弟子たちは、高価なものを惜しみなくイエス様に捧げた女性の行為を「むだ」と言いました。しかし、イエス様は「りっぱなこと」(良い行い)と言いました。イエス様に捧げる行為にむだなことはありません。イエス様は喜んでくださいます。弟子たちの姿勢は間違っています。聖書は言います。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(1コリント15:58)

マタイ25:14-46

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(40節)
聖書は
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
と言います。この地上で倫理的責任を放棄した人たちは「永遠の刑罰にはいり」、あわれみを示した者は「永遠のいのちにはいる」と言います。もっとも、あわれみを示した人たちは、打算的ではない、信仰の結果としての愛の行為であることが分かります。聖書は言います。
「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)
今あるは神の恵みであることを自覚し、あわれみを示す者となれますように。

マタイ24:32-25:13

「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。」(25:4)

十人の娘たちのたとえの重要なポイントの一つは、この娘たちは花嫁ではないということです。ですから、新興宗教が「自分たちこそが賢い娘たちで、正統的なキリスト教会は愚かな娘たち」と主張することは間違っています。「みな、うとうとして眠り始めた。」(5節)とありますから、自分たちの組織だけが目を覚ましていると主張する根拠もありません。イエス様のポイントは絶えざる警戒と備えです。たえざる油は、ゼカリヤの幻でもあります。燭台のともしび皿にオリーブの木からの管がついていて油が供給され続けている幻です。その意味を神様はこう言われました。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」(4:6)日々、聖霊の助けを求め、聖霊に導かれて生きることが大切です。

マタイ24:1-31

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(4,5節)

「自分こそ再来のメシア(キリスト)だ」と自称する人は、すべて偽りです。イエス様は明確に、自称メシアに惑わされないように気を付けるように警告しました。二世紀に、自分こそユダヤ民族を救うメシアだと自称したバル・コクバに惑わされた人々は第二次ユダヤ戦争を起こしました。その結果、エルサレムは完全に廃墟となりました。ユダヤ人はエルサレムに入ることも禁じられました。また、時のローマ皇帝によってユダヤの名称は廃され、現代まで続くパレスチナとなりました。

『私こそキリストだ。』と言う人に惑わされてはいけません。

たらこについての微考察

わたしはたらこが大好きです。
もともと両親が九州出身ということもあり、辛子明太子が親せきから送られてくることも多かったので普通よりは魚卵が食卓に上る回数が多かったのではと思うのですが、炊き立てのご飯とたらこがあれば他は何もいらないと思うほど好きです。昨晩、そんなたらこを白米にのせて食べながらふと思いました。最初にたらこを塩漬けにしようと思ったのは誰なんだろう?魚卵は世界中に様々な保存方法を発展させて食されています。調べたところ、日本では江戸時代前期にはたらこに酢をかけて食していたとのこと。とにもかくにも先人たちに感謝です。神様から豊かな知恵と食への欲求を与えられ、今日のさまざまな料理があるのですね。私たちを喜ばせ、楽しませてくださる神様に与えられた今日という日を喜びと感謝をもって過ごしていきたいものです。
(小山晶子牧師婦人)

マタイ23:1-39

「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」(11節)

8節で「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。」の「先生」と訳された単語は「ラビ」です。ユダヤ人の教師に対する尊称です。ヘブル語の語源は「私の偉大な者」(私の偉い人)です。ですからイエス様は、「偉大な者」(偉い人)と呼ばれてはいけませんと言われたのです。そうすると十一節でイエス様がどうしてこう言われたかが分かります。もちろん、ここでイエス様が注意しているのは地位争いです。残念ながら教会の歴史を振り返る時に、イエス様のこの忠告を見て見ぬふりをしてきた感があります。キリスト教会に偉い人はイエス・キリストだけです。みなキリストにある兄弟姉妹です。私たちにとって権威ある教えは、キリストの教えだけです。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マタイ22:15-46

「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(32節)

「神はかつてアブラハムの神だった」とは聖書は言いません。「アブラハムの神」と言うように、アブラハムの存在は消滅していません。つまり、アブラハムのいのちは今も神の御手の中にあり、やがて復活することが前提となっています。この信仰に生きる時、私たちのこの地上での生き方は自然と変化します。リック・ウォーレン師はこう言います。

「永遠を意識するようになると、価値観が一変します。時間やお金を賢く使うようになり、名声や富、業績やファッション、はやりの考え方などは、もはやどうでもよいものになるでしょう。」「重要だと思っていた多くの活動、目標、そして頭を悩ます問題でさえ、取るに足りない、小さなことに思えてくるかもしれません。神に近づけば近づくほど、すべてのことは小さく見えてくるものなのです。」

マタイ21:33-22:14

「だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。」(22:9)

神はすべての人を招かれています。私たちは大通りに行って、出会った者をみな招くように遣わされています。しかし、招かれた者はそのままで良いとは言いません。「礼服」を着ることが条件とされています。聖書は言います。

「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ61:10)

つまり、礼服とは神が私たちに着せてくださる救いの衣のことです。誰でも着ることができるように、イエス・キリストがカルバリの十字架で用意してくださった衣のことです。「礼服」を着るとは、イエス・キリストを自分の救い主、主として信じ、受け入れることです。

マタイ21:18-32

「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(32節)

イエス様のユダヤ教指導者に対する言葉は辛辣です。ユダヤ教指導者たちは、ユダヤ教的敬虔さから締め出された取税人や遊女たちに劣るとイエス様は言いました。なぜなら、神のみこころを実際に行ったのは、律法を遵守していると自負していたユダヤ教指導者たちではなく、彼らが軽蔑していた人たちだったからです。バプテスマのヨハネの言葉を聞きながらも、ユダヤ教指導者たちは思い直すこともせず、拒否しました。その結果、彼らが見下していた人たちよりも劣る者となってしまったと言います。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)