ヨハネ 16章

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(23,24節)

祈りは神が選ばれたあなたの必要を満たす方法です。ある人々はこう考えます。「神様は私の必要を知っているのだから、求める必要はない。私が必要な時に与えてくれるはずだ。」これは正しくありません。聖書は、ある事柄に関しては、神は私たちが祈るならば与えられると約束されたことを教えています。今、欠けているものは、単に、そのことを神様に求めていないからではないでしょうか?「わたしの名によって」と言うのは、イエス様の名前が魔法の言葉と言う意味ではありません。イエス・キリストとの関係の中でと言うことです。

ピリピ 4章

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(6,7節)

不安というのは、神ではなく、恐れに焦点を合わせることです。そして、不安は何も解決しません。不安はただ問題を大きくするだけです。不安になればなるほど、平安を失っていきます。聖書は祈りが信仰への小道だと言います。祈りだけが、物事を適切な視点に置くことができる方法だからです。
もっとも祈りは願いだけではありません。「感謝をもってささげる祈り」もあります。「すべての事について、感謝しなさい。」とあるように、プラスに見えることも、マイナスに見えることも感謝できますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

(リック・ウォーレン師の『祈りの四〇日』から)

祈りの四〇日

二〇一四年八月十二日、創世記一章から一日一章続けてきたデイリーデボーションも、先週、十一月十六日で六六巻終わりました。二〇一八年の新年からまた、仕切り直していきたいと思います。それまで、リック・ウォーレン先生の「祈りの四〇日」という四〇日間のデボーションから共に祈りを黙想していきたいと思います。

ヨハネ 15章

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(15,16節)

どうやってあなたは親友とつながり続けますか?会話です。私たちは自分を愛してくれる人と話すことが大好きです。友達に何を話しますか?何でも。それが友というものです。祈りは神との会話です。そして、神はあなたが持つことが出来る最高の親友です。実際、神があなたを友として選ばれました。神はあなたの祈りに疲れることはありません。
(リック・ウォーレン師の『祈りの四〇日』から)

ヨハネ 15章

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(5‐7節)

祈りは神のアイディアです。神はあなたを祈るために造られました。祈りはあなたを神との関係に留めます。それはぶどうの木の枝のようです。祈りをもって神につながり続けましょう。それが生きるための唯一の道です。
(リック・ウォーレン師の『祈りの四〇日』から)

マラキ 4章

「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」(6節)

これが、旧約聖書の一番最後の言葉です。旧約聖書の目的は、神の基準を提示して、私たち人間が自分たちの力でその基準に到達することができないことを示すためにあるからです。ですから、旧約聖書で終わってしまうと、のろいで終わります。しかし、新約聖書の終わりはこう記されています。

「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」(黙示録22:21)

恵みで閉じられています。聖書は言います。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

「イエス様、あなたが私の罪のために十字架で死に、葬られ、三日目によみがえられ、すべての呪いを打ち砕いてくださったことを感謝します。」

マラキ 3章

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(10節)

私たちは神の愛に応答して、何かを捧げたいと思います。しかし、どのぐらい神に捧げるのが適当でしょうか?神は私たちに、収入の十分の一をもって試すことを勧めます。(聖書の中で神は、献金だけ試すように言います。)神はつまり「いくら捧げたか」ではなく、「どのような心で捧げたか」をご覧になられていると言います。神の目は、金額ではなく心に向けられているからです。神は私たちのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注がれます。その祝福は自分個人だけにとどまるものではありません。自分が属している共同体全体にあふれます。

マラキ 2章

「もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら、――万軍の主は仰せられる。――わたしは、あなたがたの中にのろいを送り、あなたがたへの祝福をのろいに変える。もう、それをのろいに変えている。あなたがたが、これを心に留めないからだ。」(2節)

新共同訳では、今日の箇所の前半部分をこう訳しています。

「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら」。

神が私たちに求めている三つの段階をここで見ることができます。まず

第一に、聞くこと。

信仰は神のみことばを聞くことからはじまります。しかし、それを頭の知識として満たすだけでは意味がありません。

第二に、心に留めること。

聖書はイエス様に近づくためにあります。聖書のみことばに応答して、イエス様に近づくことが大切です。そして、

第三番目に、神に栄光を帰すこと。

すべての栄光は主のものです。

マラキ 1章

「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。―万軍の主は、あなたがたに仰せられる。―わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』と。」(6節)

イスラエルの人々は、神を敬う気持ちを失っていました。LBで、7節の後半をこう訳しています。

「いつも、あなたがたは言っている。『わざわざ高価なものを主にささげる必要はない。』」

神に対して、私たちもそんな態度を取っていないでしょうか?自分が必要のないもの、また自分の残り物を、神に捧げようとしていないでしょうか?神は言います。

「あなたがたは唱える。『神よ、あわれんでください。恵みをお与えください。』しかし、そのようなささげ物を持って来る者に、どうして好意を示せるというのか。」(1:9LB)

黙示録 22章

「御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(17節)

神のことばは「来なさい」という招きの言葉で閉じられていることに心を留める必要があります。神の愛のメッセージを聞き、赦しを受け、キリストと共に生きる喜びを体験した者は、他の人にもこの主の招きを伝えたいと思うようになります。イエス様は仮庵の祭りの終わりの大いなる日に、立って、大声で言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

この渇きは単なる身体的な渇きではありません。神への渇きです。問題は、人はこの渇きを一時的な快楽や物質などで埋めようとすることです。この渇きを潤すことができるのは神だけです。神はすべての人を招いています。今日は主の日。共に、主のもとに行き、礼拝を捧げましょう。