エゼキエル 25章

「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。」(8節)

モアブの国が裁かれる原因は、イスラエルの国も、ほかの国もまったく変わらないと言っているからだと言います。現代風に言いなおすならば、キリスト教も他の宗教も同じ、何も違いはないと言っているからだと言います。つまり、このような宗教多元主義の考え方は決して新しいものではなく、昔から存在していたということです。このグローバル世界において「共存」を考えることはとても大切なことです。しかし、根本的な神理解が違うのにもかかわらず、すべて同じとすることはできません。そして今日の箇所が私たちに伝えていることは、それはまた、天地万物を造られた創造主なる神、ヤハウェに対して失礼なことでもあるということです。聖書が教える神は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

※ 明日のSSCの第三礼拝は、鶴見でもたれる合同聖会に合流するためお休みです

エゼキエル 24章

「あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。」(13節)

神は私たちの人生がきよめられることを願っています。神は泥沼のような中から私たちを引き上げ、きよめてくださるお方です。しかし、残念ながら、ある人々はまた、その泥沼に帰って行ってしまい、再び身を汚してしまいます。神は私たちの意志を尊重されますから、その人の間違った選択に対する報いを受けることを許されます。LBでは、「わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたが拒んだので」とあります。しかし、それは神がその人を見捨てたわけではなく、その人が本当の意味で悔い改めて、変わることを願われているからです。神は私たちが悔い改めて、神の助けを求めるならば、いつでも私たちを助ける準備ができています。あわれみ深い神は放蕩息子を待っていた父親のように、待っておられます。

エゼキエル 23章

「あなたが姉の道を歩んだので、わたしは彼女の杯をあなたの手にも渡す。」(31節)

23章では、北イスラエル王国を姉として、南ユダ王国を妹として描いています。そして、この箇所では「杯」が裁きの象徴として用いられています。箴言にこういう箇所があります。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

自己中心、神に背を向けて歩んでいく道の終りは死、滅びです。北イスラエル王国の生き方は、まさにそのことを象徴しています。しかし、南ユダ王国は残念ながらそのことを学ぶことができませんでした。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださいましたから、同じ道をたどる必要はありません。私たちは方向転換(悔い改め)して、神中心、神に向かっていく道を歩むことができます。私たちは、歴史からも学ぶ必要があります。

エゼキエル 22章

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(30節)

神は、義なる神とその国の間、破れに立って、とりなしの祈りをする人を捜していると言います。当時のイスラエルの国には、残念ながら見つかりませんでした。今も、この世の悪に対して、嘆くだけでなく、アブラハムのように「滅ぼさないでください」と、とりなして祈る人が求められています。歴史を通じて、人知れず破れ口に立ち、とりなしの祈りを捧げてきた人たちがいて、今があります。私たちはこの世の現実に対して無力に感じてしまいます。自分なんかに何ができるのだろうと思ってしまいます。しかし、神はこの国のために破れ口に立ちふさがって、祈る人を捜し求められています。「主よ、日本の国をあわれんでください。イエス・キリストのゆえにリバイバルを与えてください。」

エゼキエル 21章

「廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。」(27節)

権威は神が授けるものです。広い意味で言えば、パウロがローマ13章で言うように、

「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」

しかし、狭い意味で言えば、真の権威をもつ方は、イエス・キリストです。そして、この箇所は、この世界の終りに神に逆らうすべての権威は絶ち滅ぼされ、すべての権威は本来あるべきところ、メシヤであるイエス・キリストに渡されるということを預言しています。現在、立てられている指導者を尊重し祈ることも聖書が教えているように大切なことです。しかし、真の権威はイエス・キリストにあることを認め、イエス・キリストが自分を、この地を治めてくださるように生きることも大切です。

エゼキエル 20章

「そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」(49節)

エゼキエルのもとに、イスラエルの長老たちが主の御心を知ろうとしてやってきました。その彼らに対し、神はイスラエルの人々がどれほど神をないがしろにし、数え切れないほど裏切りを続けてきたかということを語り、その後の厳しい現実を宣告します。ところが神の御言葉を聞きに来たはずの長老たちは、それを現実とは思わず、エゼキエルがたとえ話を繰り返し話しているとしか受け止めませんでした。御言葉を聴く私たちの姿勢に対する警告であるとも受け取ることができます。真剣に語られている神の御言葉に対して、真剣に聞く姿勢が求められています。そうでなければ長老たちのように、ただの「お話」で終わってしまいます。

はやいもので

きょうは献堂15周年特別礼拝。
毎年献堂時期を迎えるたびに感謝の思いでいっぱいになりますが、節目の年は特に感動します。それはこの場所が私にとってのエベン・エゼルだからです。『主がここまで導いてくださった』とヤコブが記念の石を置いたように、この会堂を見るたびに、集うたびに、礼拝を捧げるたびに、祈るたびにそれを何度も何度も思い起こすことのできる場所。でも20年近く前、そんな思いを全く描くことも出来なかった時期に与えられた御言葉。『山に登り、木を運んできて宮を建てよ。』これを語るまでの牧師の苦悩をつい昨日のことのように思い出します。この場所に移ってから多くの人が来、多くの人が去っていきました。その喜びと痛みの中に「教会の頭はキリストである」ことを思い知らされる日々の繰り返しでもあったように思うのです。聖霊様の喜ばれる群れであることを求めつつ、聖霊様の流れに身をゆだねてあとどれくらいかはわかりませんが与えられたこの教会での自らの使命を全うしていきたいと願います。  感謝しつつ。(小山晶子牧師夫人)

エゼキエル 19章

「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。」(14節)

メッセージ訳ではこれは

「ブルース」

の歌詞だと訳しています。それほど歌詞自体には希望を見出せません。しかし、私たちが

「何に信頼しているか」

という大切な問いかけがなされています。19章では、強いライオンと強い枝をもつぶどう園が登場します。これはダビデ王朝を象徴しています。しかし、ライオン(王)も連行され、ぶどう園(イスラエル)も引き抜かれてしまいます。私たちは何に信頼しているでしょうか。強力な軍事力をもった指導者でしょうか?聖書は明確にイエス・キリストに信頼する者は失望することはないと言います。イエス・キリスト以外の誰かに、何かに信頼しているならば、それは砂地であり、ブルースの歌になると。

今日は主の日。聖霊降臨日(ペンテコステ)。共に主に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル 18章

「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」(2節)

不思議なことわざですが、ポイントは自分が問題の中にいる原因は父親(先祖)にあるという意味です。自分自身の問題を棚上げにして、先祖のせいにすることを、神は否定されました。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(3,4節)

神のポイントは、誰かのせいにしてはいけないということです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」(21節)

自分の選択が問われるのです。

エゼキエル 17章

「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(24節)

22‐24節は、「野のすべての木」が国々を象徴していて、終わりの時に、国々がメシヤ(若枝)の支配に服するという約束です。この約束を期待する理由は、最後の部分にあります。

「主であるわたしが語り、わたしが行なう。」

岩波訳ではこう訳しています。

「わたしヤハウェが〔これを〕語ったのである。わたしが〔これを〕実行する。」

神が語ったならば、神が責任をもって実行されます。神がご自身の言葉に責任をもたれます。ですから、聖書のみことばを宣言して祈ることには意味があります。

「枯れ木に芽を出させること」ができる神は、私たちの人生にも新しいはじまりを与えることができます。どんなに未来が枯れ木のように見えても、主に期待しましょう。