そして、六年。

あの日から六年の月日が流れました。
2553人がいまだ行方不明という現実。亡くなった方は15000人以上。その一人一人に家族がいて、友達がいて、かかわりのあった人々がいて。それでも前に進んでいくしかない心の苦しさと痛みは、計り知れません。原発事故の直後にトモダチ作戦として米軍が救助に当たってくれましたが、そのうちの400人以上に被爆の可能性があり、うち8名が白血病ですでに亡くなったというニュースを読みました。事実かどうかは科学的な検証が必要ですが、国民の知らないところで恐ろしいメルトダウンが起こっていたことは事実です。福島から避難してきた子供が横浜市の小学校でいじめを受けていたことを知り、横浜市民として本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。新實伝道師が被災地で様々な活動を行ってくれています。ゴスペル、キャンプ、絵画教室、クリスマス会。私たちは直接行くことができないならばせめて、新實伝道師の働きを祈って、支えていきたいと思います。
「揺れ動く地に立ちて なお十字架は輝けり」

(小山晶子牧師夫人)

イザヤ 65章

「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。」(25節)

主は言われます。

「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(17節)

神は天地を新しくされると言います。そこでは狼と小羊がいっしょに草を食べ、ライオンは牛のようにわらを食べ、蛇はちりを食べて、人にはかみつかないと言います。傷つく者は一人もなく、壊れるものは一つもないと言います。そのような完全な新しい天と新しい地は、この世界の終わり、イエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。その日まで、そのような平和をこの地に作り出す役目が私たち一人一人にあります。

「平和をつくり出す人は幸いです。」(マタイ5:9LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

イザヤ 64章

「神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」(4節)

LBではこのように訳しています。

「世界が始まって以来、私たちの神のように、待ち望む者にすばらしいことをしてくれる方は、ほかにありません。」

使徒パウロはまさにこの箇所を引用してこう言っています。

「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』」(Ⅰコリント2:9)

神を愛する者、待ち望む者に、神は見たことも、聞いたこともない、思い浮かぶこともない素晴らしいことをされると約束しています。神は

「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

です。

※ 今日は東日本大震災から6年。キリエ・エレイソン、主の憐れみと助けが被災者の方々の上にありますようお祈りします。

イザヤ 63章

「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」(9節)

私たちが苦しむとき、神はいつも共に苦しまれています。「足跡」という詩があります。

「ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりの足跡が残されていた。一つはわたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。わたしの人生で一番辛く、悲しい時だった。(中略)

主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡が一つだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた。』」

イザヤ 62章

「あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。」(4節)
LBではこう訳しています。
「もう再び、『神に見捨てられた地』などと呼ばれません。新しい名は『神が喜ぶ地』また『花嫁』です。」
神は私たちに新しい名を与えてくださるお方です。「わたしはあなたの名を変える」(I will change your name)という賛美があります。
「わたしはあなたの名を変える
あなたはもう
『傷ついた人』
『のけ者』
『ひとりぼっち』
『びくびくする人』
とは呼ばれない
わたしはあなたの名を変える
あなたの新しい名は、
『確信』
『喜び』
『勝利者』
『誠実』
『神の友』
『神の御顔を慕い求める人』」

イザヤ 61章

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、」(1-2節)

キリストがこの地上で最初に説教する時に用いたテキストが今日の箇所です。しかしキリストは

「主の恵みの年を告げ」

というところで読むのを止め、

「神の復讐の日」

を読みませんでした。これは

「神の復讐の日」、「敵が滅びる日」(LB)

を削除されたということではなく、

「今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)

ということだと思います。

キリストは貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒すために来られました。キリストの体である教会は、このキリストが働かれやすい環境を提供することが求められています。そのために主の霊が住まわれています。

イザヤ 60章

「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。」(19,20節)

終わりの日、やがてもたらされる新しい天と新しい地の預言がここにあります。ヨハネの黙示録にも、こういう箇所があります。

「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(21:23)

神の栄光に輝く都、それが、永遠の天の都です。それは、キリストの永遠の支配を意味し、私たちの嘆きや悲しみが終わる日を意味しています。キリストの支配を歓迎できない人にとっては、天国は苦痛かもしれません。だからこそ、キリストの支配を歓迎する人だけが天国に行けるのかもしれません。

イザヤ 59章

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(16節)

預言者は言いました。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9)

しかし、今日の箇所を見ると、イスラエルの国のためにとりなしの祈りの手を挙げる人を神は見つけることができなかったと言います。神は今もとりなしの祈りの手を挙げる人を探しています。神は日本の国のためにとりなしの祈りの手を挙げる人を探しています。教会はとりなしの祈りの手を挙げる人を必要としています。先日、こんなツイートがありました。

「イエスを知ることが出来るように祈ることは、私たちができる最も力あることの一つ。誰かのために祈ることは彼らの人生に変革をもたらす。」

五人の友人の名を挙げて毎日祈ってみませんか?

十周年記念

その現場は仕事帰りの急な坂道を下りきったところにあります。次男は今年16歳になりますが、6歳のある日、その場所で死にかけました。ブレーキの利かない自転車で勢いよくその坂道を下り、ガードレールに激突して地面に叩きつけられたのです。ちょうどその場面を目の当たりにしたドライバーの男性は「正直、死んでしまったのではと思いました。」というほど。救急車の中で意識を失い、傷だらけになった次男の姿を今でも忘れることができません。久しぶりにその場所を家族で通りました。生きててよかったね、と声をかけると次男は「10周年だ」とぼそっとつぶやいたのです。あれから何となく、次男が自転車に乗るのが怖くて少し(かなり?)過保護になってしまいましたが、この春からは我が家から6キロ離れた海抜55メートルの場所にある高校に自転車で通うことになりました。シャロームに集う若者たちそれぞれ、進級、進学、就職と人生の新たなスタートを迎える季節となりました。これからも祈りに覚えていただき、励ましていただければ幸いです。(小山晶子牧師夫人)

イザヤ 58章

「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」(6節)

教会暦では水曜日からレントに入りました。レントの期間、伝統的にはキリストの受難を覚えて断食をします。今日の箇所は本当の断食とは何かが語られています。自分を敬虔そうに見せるための断食には意味がない。断食はそもそも自分の願いをかなえるためではなく、社会的弱者を覚えるためだと言います。

「飢えた者に食べさせ、困っている者を助けなさい。そうすれば、あなたの光は暗闇の中から輝き渡り、あなたを取り囲む暗闇は真昼のように明るくなります。」(10節LB)

今日は主の日。

「安息日をきよい心で守り、その日には仕事や趣味に熱中したりせず、喜んで一日を過ごし、主の聖なる日だと喜びを込めて言い、自分のしたいことをせずにむだ口を慎み、わたしをあがめるなら」(13節LB)