エレミヤ 5章

「あなたがたの咎が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ。」(25節)

神は私たちに良いものを与えたいと願っておられますが、罪がそれを妨げると言います。罪は

「的外れ」

という意味がありますが、

神を無視して生きている人生

は、まさに

「的外れ」

ということになります。

人が本来造られた目的ではなく、暗闇の力に振り回されている状態

は、まさに

「的外れ」

と言えます。

自分の問題を棚上げして、「神が自分の願いをかなえてくれない」と言う

のは、まさに

「的外れ」

と言えます。私たちは神に文句を言う前に、自分自身を調べることも大切です。詩人もこう言っています。

「ああ神よ。私の心を探り、内面を調べ上げてください。あなたを悲しませるようなものがあるなら、教えてください。私が永遠のいのちへの道からそれないようにお導きください。」(詩篇139:23,24LB)

エレミヤ 4章

「まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。」(3節)

LBでは、

「固くなったあなたがたの心を耕せ。」

と訳しています。ユージーン・ピーターソンという神学者は、この

「耕せ」

というのは、神のみことばを私たちが受けとるために私たちの心を悔い改めることによって整えることを表していると言います。神のみことばを受け取るためには、確かに、謙遜になる必要があります。自分の考え、自分の思い、自分のやり方で頭がいっぱいであるならば、神のみ言葉の種は、私たちの心に入る余地がありません。私たちは常に神のみことばが心に入りやすいように、心を整える必要があります。神を神として認め、聖書のみことばを神のみことばとして認め、謙遜に、聖霊なる神様にみことばを与えてくださるように、祈り求めることによって耕す姿勢が大事です。

エレミヤ 3章

「行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。――主の御告げ。――わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。――主の御告げ。――わたしは、いつまでも怒ってはいない。」(12節)

北イスラエル王国に対する神のみことばは厳しいものがあります。しかし、深いあわれみも含まれています。北イスラエルの神に対する愚行はひどいものでしたが、神はその怒りを恵みへと変えることをここで語られます。ただ、次の節に私たちは目を留める必要があります。それは、

「ただ、あなたは自分の咎を知れ。」(13節)

という言葉です。私たちもまた、神の深いあわれみの中で、イエス様の十字架の贖いによって赦されたものです。しかし、その罪の重さを感じることができなければ、赦されたことの素晴らしさもわかりません。

エレミヤ 2章

「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」(32節)

私たちは自分が何に時間とお金をかけているかということを、見直す時が必要だと思います。なぜならそのことが、私たちの現在の優先していることを知る鍵となるからです。神は私たちに世捨て人のような生活をするように強制しているわけではありません。詩篇の中にも、

「今日こそ主がつくられた日です。さあ、この日をぞんぶんに楽しみましょう。」(詩篇118:24LB)

とあります。しかし、聖書は言います。

「わたしの民は、最も貴重な宝であるわたしを、長い間忘れたままでいる。」(LB)

神がどれほど貴いお方であるかを忘れてしまい、神を意識せず、感謝をささげることもなく生きることは「神を忘れた日」としてカウントされているということだと思います。

今日は主の日。主を意識し、共に礼拝を捧げましょう。

エレミヤ 1章

「だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ。――あなたを救い出すからだ。」(19節)

神は決して偽の口実を通して人を呼ばれることはありません。神はエレミヤに、わたしの方法に従えば、何の問題もなく簡単にやり遂げられるとは言いませんでした。逆に、戦いがあると言いました。

「彼らを怖がるな」(17節LB)

とありますが、恐れるような状況に直面することも伝えています。しかし、同時に神は約束されました。

「彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。」なぜなら、「わたしがあなたとともにいて、必ず救い出すからだ。」(19節LB)

神を恐れない人に神が語られることを語ることは勇気のいることです。エレミヤは涙の預言者と呼ばれました。涙を流して人々に神に立ち返るように勧めたからです。しかし、人々からあざけられ、迫害されました。それでも語り続けました。神が共にいて、救い出したからです。

2テモテ 4章

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2節)

使徒パウロが、若い伝道者であるテモテに命じたことは、みことばを宣べ伝えることでした。ですから、キリスト教会の主日礼拝の中心は、みことばを宣べ伝えること、聖書のメッセージです。使徒パウロは、エペソの長老たちにこう言いました。

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:26,27)

「神のご計画の全体」ということは、聖書の全体と理解することができます。創世記から黙示録まで、教会は余すところなく聖書のみことばを語る責任があります。

2テモテ 3章

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」(14,15節)

聖書を学ぶことは大切なことです。自分で学び、確信したことは揺らぐことのない土台となっていきます。しかし、「どの人たちからそれを学んだか」ということも問われていることも注目する必要があります。すぐ後の16節で、

「聖書はすべて、神の霊感によるもの」

とあるように

聖書を神の言葉と信じている人から学ぶ必要があります。

アルファのニッキー師はこう言います。

「聖書が神の霊感によって書かれたものであるという見解は、時代を超えて全世界の教会において、ほとんど普遍的なものです。」

2テモテ 2章

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」(24,25節)

中世の暗黒時代の教会が行ったような、力ずくで人を正そうとする方法は、クリスチャンのやり方ではないと聖書は言いますので正当化することはできません。だからと言って、「ことなかれ主義」を奨励しているわけではありません。25節をLBではこう訳しています。

「おだやかに、思いやりをもって話せば、神の助けによって、その人は間違った考え方を改め、真理を悟るかもしれません。」

人は人を変えることはできません。しかし、神の助けによって、人は変わることができます。ですから、私たちは聖霊なる神の導きを求めつつ、できるかぎりすべての人と平和に共存していく必要があります。

2テモテ 1章

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(7節)

若い伝道者であったテモテには、たくさんの恐れがあったことが、パウロの語る言葉から知ることができます。テモテは、パウロのような特別な体験をしたわけでもなく、経験も浅く、自信をもって教会を指導できるような状態ではなかったのだろうと思います。ですから、パウロはテモテに自分の能力ではなく、神が与えてくださったものに焦点を合わせるように促します。どんなに自分の中におくびょうな霊しかないと感じていても、神はあなたに、力、愛、慎み(自制)の霊を与えているではないかと言うのです。私たちもこの視点の転換が必要です。どんなに自分の内に良いものを見いだせなくても、神が私たちに与えてくださっているものがあります。神が自分に与えてくださっているものは何かを考えることができますように。

イザヤ 66章

「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」(2節)

神が目を留められるのは、尊大で強い人ではなく『へりくだって心砕かれた人』である、とこの箇所は語っています。なぜなら尊大で傲慢な人は、自分には神が必要ではないと思っているからです。この箇所にもあるように、いま私たちに与えられているすべてのものは本来神からの無償の贈り物です。水も、空気も、土地も、草花も食物も。家族や友人もそうです。それなのに私たちはその方を無視し、すでに「ある」ものからの加工品を造ることに必死です。すべてを与えてくださっている方を、「自分には必要ではない」と無視して生きることは大変矛盾していると思います。生かされていることを、まず感謝する一日でありますように。