詩篇 100篇

「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(3節)

「知れ。主こそ神。」これほど力強い言葉はないと思います。英語の聖書では

「これを知りなさい。神は神。(GOD is God.)」(MSG)

私たちは、自分の命を自分で一日も伸ばすことができないのと同じように、自分にはどうすることもできない領域があることを謙虚に受け止める必要があります。人は永遠に神になることはありません。神は神です。神は私たちを造られた方です。私たちは、この神に属する者であり、神の民、神の守りの中にある民です。パウロは、この真理を苦しみの中で見いだしました。

「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。」(Ⅱコリント1:9)

主が神であるとはどんなことか、知ることができますように。

詩篇 99篇

「主は、雲の柱から、彼らに語られた。彼らは、主のさとしと、彼らに賜わったおきてとを守った。」(7節)

出エジプト記の中で、カナンの地を目指すイスラエルの民を昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いたと記されています。そして、神がモーセと語られる時、天幕の入口に雲の柱が立っていたとあります。雲の柱は神の臨在の象徴です。この天幕において、

「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」

のです。今、神は祈りと聖書を通してわたしたちと語られます。昔のように雲の柱は出てこないかもしれませんが、イエス様の御名の中で祈るとき、どこにいても神の臨在の中に身を置くことができます。モーセと親しく語られた神は、私たちとも親しく語ってくださいます。聖書のみことばは、私たちに語りかけ、私たちに応答を求めます。

「彼らは従順に従いました。」(7節LB)

とありますように、神のみことばに従っていくことができますように。

詩篇 98篇

「立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。」(5節)

古代の壁画や遺跡などをみると、数多くの楽器がはるか昔から使用されていたことがわかります。わたしたちは聖書に中にも様々な楽器を見ることができるのですが、その実際の音色は残念ながら聴くことができません。これは、たぶん私たちがそれぞれの時代のそれぞれの文化の馴染みのある楽器を用いて神にほめ歌を歌うようにという意味だと考えられます。詩篇は、その歌の調べ(メロディ)も分かりません。これも、その時代のその文化に馴染みのあるものに変えて欲しいという意味だと思われます。詩篇の時代の人々が馴染みのある楽器を用いて、馴染みのある調べで神様にほめ歌を歌ったように、私たちも、この時代に生きているものとして、馴染みのある調べを、馴染みのある楽器を用いながらよい音色をもって神様に賛美をささげることができますように。

詩篇 97篇

「主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。」(1節)

イスラエルの人々の祈りは、主ご自身が彼らの王となることでした。王が意味することは「統治」です。「神が統治する」、これ以上の良い知らせはありません。神の統治は、イエス・キリストの十字架によって、この地にもたらされました。憎しみと争いが統治するこの世界に、愛と赦しの統治を十字架によってもたらしました。十字架の上でキリストは祈られました。「父よ、彼らを赦したまえ。」神の愛と赦しの統治は、死をもって終らせることはできませんでした。キリストは死の力を打ち破り、よみがえられました。神の愛と赦しの統治は、今も、広げられています。私たちは憎しみの力に負けてはいけません。十字架と復活のイエスを見上げて、神の愛と恵みの統治の知らせを伝えていかなければなりません。
「神は統治される。叫ぶ何かがあります。」(1節MSG)

詩篇 96篇

「国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」」(10節)

詩人は言います。

「主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。」(2節)

「御救いの良い知らせ」は10節にあります。

「主は王である。」

人ではなく、主(ヤハウェ)なる神が王となられること、すなわち神ご自身が統治される神の御国こそが本当の救いです。それが、まさにこの世界の終わりにもたらされることです。しかし、同時にイエス・キリストはこう言われました。

「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(ルカ11:20口語訳)

神の国の王、神の御子、イエス・キリストよって神の国、神の支配はすでにこの世界にもたらされています。だからイエス・キリストの十字架の死と復活を伝えることが福音を告げることです。

詩篇 95篇

「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、」(7節)

聖書は私たちに、賛美の歌をもって主に応答するように命じます。

「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」(1節)

なぜなら、主は天地万物を造られた創造主だからです。すべてのものは主のものだからです。そして詩人はこう綴ります。

「私たちは神の羊であり、神は羊飼いなのです。今日、呼びかけの声を聞いたなら、神のもとへ行きましょう。」(7節LB)

8節以下が暗に伝えていることは強情になるかならないかは、私たちの自由意志ということです。そして、不平やぐちを言い続けるならば、私たちの人生に祝福はないということです。羊飼いである主の呼びかけに応答し、主のもとへ行き、喜びの声をあげましょう!
今日は主の日。主の御前に心からの賛美と礼拝を捧げましょう。

詩篇 94篇

「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」(19節)

LBでは、この箇所をこう訳しています。

「神よ、何もかもが信じられず動揺してしまうとき、私の心を静め、新しい希望を与え、元気を取り戻させてください。」

私たちは、いろいろなことで動揺します。ここでは、詩人は神を恐れないで悪いことをしている人たちが何の問題もなく生きていることに疑問を感じ動揺しています。しかし彼は理解できないことでなく、知っていることに目を留めました。

「耳と目をお造りになった神が、耳が聞こえず、目が見えないということがあろうか。」(9節LB)

私たちに分からなくても、主は知っておられます。

「まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。」(14節)

詩篇 93篇

「主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。」(1節)

「御国が来ますように」と、クリスチャンは祈りますが、「御国」とは、「王国」、「王の支配」という意味です。王はもちろん、イエス・キリストです。イエス様の十字架に掲げられた罪状は、「ユダヤ人の王」でした。十字架と復活は、まさに、キリストにある王の支配がこの地上で始まったことを意味します。ですから、「御国が来ますように」という意味は、「神の主権を認めます」「神の統治を認めます」という意味です。もちろん、私たち人間が認めようと認めまいと、神はすでに王であり、すべてを治めておられます。しかし、完全な支配はまだ施行されていません。神は人間の自由意志を尊重されておられるからです。しかし、神の主権を認め、万事感謝と生きる人は、神の永遠の御国にすでに生きています。

詩篇 92篇

「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。」(1,2節)

私たちが生きていく中で何が良いことなのでしょうか?この箇所ではっきりと私たちに教えられている良いことは、主に感謝することです。すべてのことについて、主に信頼して、主に感謝する人生を歩むことは良いことです。不平不満ばっかり言っている人生よりも、感謝している人生のほうが、良い人生です。いつも神様に感謝することができるように、朝ごとに、そして、夕ごとに、「ハレルヤ!主よ、感謝します。」と言って起きる習慣、「ハレルヤ!主よ、感謝します。」と言って寝る習慣を身につけることは、聖書が良いことと言うことです。