詩篇 111篇

「主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人々はみな良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。」(10節)

『主を恐れることは知恵の初め』

この言葉はとても重要です。主を恐れるとは、創造主なる神を、聖書の神を、神として認める、畏敬の念を持つ、ということです。しかし、残念なことに、信仰がなく、学問や歴史書としてしか聖書を学ぼうとせず、真理から遠ざかっていく「神学者」がたくさんいます。信仰がなければ聖書の奥深い真理を知ることは決してできません。私たち人間には理解できない神の領域があるということを知って初めて、真理を知るというスタートラインに立つことができます。へりくだり、神に聞く耳を持つことによって初めて、神は聖書の真理を私たちに語ってくださいます。聖書は信仰をもって読むべきものです。興味深いことに初代教会の始まりに、こんな記録があります。

「だれもが心から神を恐れ敬うようになり」(使徒2:43LB)

詩篇 110篇

「主は、私の主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。』」(1節)

今日の箇所は「メシヤ詩篇」として有名です。この詩は新約聖書に最も多く引用されています。マルコの福音書の12章ではイエスがこの箇所を引用して、メシヤ(キリスト)は「神の子」であるというキリストの神性に言及します。イエス・キリストは自分が「神の子」などと言ってはいないとか、聖書はイエスの神性を教えていないとか言う人がいますが、この箇所は明らかに、イエス・キリストの神性が語られています。イエス・キリストは真の神であり、真の人でした。ですから、私たちすべての人の罪の身代わりに十字架で死ぬことができました。そして、復活され、天に昇られた今、神の栄光の御座に着座されました。イエスは旧約聖書で預言された通り全地の王となられました。キリストを信じる者は救われます。キリストは再び来られます。

詩篇 109篇

「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。」(28節)

呪われても神の民は心配する必要はありません。神がそれを上回る祝福をしてくださるからです。LBはこう訳しています。

「彼らは、のろいたいだけのろえばよいのです。あなたの祝福さえあれば、私は何も気にしません。私を亡き者にしようとする彼らの努力は水の泡となり、私は喜びながら出歩けるようになります。」

ですから私たちが最も必要としているのは神の祝福です。詩篇133篇には、兄弟姉妹たちが一つとなって共に集まるその所に祝福が命じられるとあります。ペンテコステの日も、信徒たちが一つとなって集っている所に聖霊が臨まれました。週の初めの日(日曜日)に、イエス・キリストの御名によって一つとなって神を礼拝することは、私たちが考える以上に意味があります。日々の生活の中で呪われていると思うほどのことがあります。しかし、共に礼拝を捧げる中で神が祝福します。今日は主の日です。

詩篇 108篇

「神によって、わたしたちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます。」(13節)

この詩篇の表題は、

『歌。ダビデの賛歌』

です。ダビデはイスラエルの王となった人物です。国を繁栄へと導き、その王国は息子ソロモンの時代に繁栄を極めます。一人の羊飼いの少年に過ぎなかったダビデが国のリーダーとなったわけですから、自分の力を誇ることもできたはずです。しかしダビデはどれほどの栄華を極めようとも自分の力を誇ることはしませんでした。むしろ、『神によって』という姿勢は強まっていったような印象を受けます。そんなダビデでしたから、死を前にして、息子ソロモンにこのような言葉を残しました。

「あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへいっても、栄えるためである。」(1列王記2:3)

詩篇 107篇

「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」(8,9節)

驚くことに私たちの身体は、どんなに食べても、しばらくすると食物を欲するようになります。ですから、肉の欲求を満足させることだけを考えるならば、いつまでたっても満足することはありません。一時的に満たされたと感じても、しばらくすると、もっととなります。人は肉体的な飢え渇きだけでなく、たましいの飢えがあります。飢えたたましいは、食物で満足させることはできません。イエス様は言われました。

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

イエス・キリストだけが、飢えたたましいを良いもので満たすことができるお方です。

詩篇 106篇

「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相計らって、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。それでも彼らの叫びを聞かれた時、主は彼らの苦しみに目を留められた。」(43,44節)

106篇にはイスラエルの民のこれまでの歩みがわかりやすく記されています、神を、時には信頼し、時には裏切り、また悔い改めて立ち返る、といった身勝手な振る舞いに、読んでいるこちらのほうが叱責したくなるような内容です。しかし、神を賛美していたかと思えば次の瞬間平気で不平不満をぶつけるその姿は、よく見ると自分自身の人生でもあることに気づきます。客観的に自分の人生を書き出してみるともしかしたらこの106篇と同じような内容になるかもしれません。だからこそ、今日の箇所は大きな慰めです。

「それでもなお、主はその叫びを聞き、その苦境を思いやりました。」(LB)

神のあわれみをおぼえつつ今日も歩んでいきましょう。

詩篇 105篇

「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」(4節)

今日の箇所は私たちに三つのことを求めるように告げます。

まず第一番目に、主ご自身です。私たちが本当に必要なのは、何かではなく、主イエス・キリストご自身です。私たちの本当の必要に唯一答えることができるのは、主イエス・キリストだけだからです。

第二番目は、その御力です。主は力ある神です。神に不可能なことは一つもありません。人にはできないことも、神にできないことはありません。私たちは、この全能の神を求める必要があります。

第三番目は、御顔です。御顔と訳された単語は、「臨在」とも訳されます。私たちは主の臨在を求める必要があります。「御国が来ますように」という祈りは、今、この時、神の臨在がこの場所にあることを求める祈りでもあります。神の御国(支配、統治)が、今、ここにありますように。

詩篇 103篇

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(2節)

私たちはつらかったことや傷つけられたこと、腹立たしい出来事を思い出しやすい傾向があると思います。そして自己憐憫に陥ったり、憎しみに縛られていってしまうことがあります。けれどもここで詩人は、神様がしてくださった「良い」ことを『何一つ忘れるな』と勧めます。詩人は

「あなたがなしてくださった数々のすばらしいことを私は決して忘れません。」(LB)

と言います。私たちは何よりも、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、私たちの過去、現在、未来の罪を赦していただいたことを忘れてはいけないと思います。11節にはこう書いてあります。

「神を恐れ、あがめる者には、無限のあわれみをかけてくださいます。」(LB)

否定的にならず、主の恵みを数え、主を恐れ、主をあげめることができますように。

詩篇 102篇

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。」(17節)

神様が忙しすぎて、私たちの祈りを顧みることができないということはありません。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「神は、苦闘している人の祈りを聞いてくださいます。主には、忙しくて彼らの願いが耳に入らないということはありません。」

理解できない状況の中にいる時ほど、この真理をしっかりと握り締めて宣言する必要がある時はありません。分からないことのゆえに、分かっていることを犠牲にすべきではありません。神は私たちの叫びを聞いてくださるお方です。今日も、主の御名を呼び求めましょう。主は聞いてくださっています。そして、最高のタイミングで、主は私たちの祈りに応えてくださいます。

今日は主の日。共に主を呼び求め、主に礼拝をささげましょう。

詩篇 101篇

「私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。」(1節)

英語の聖書では、今日の箇所をこう訳しています。

「わたしのテーマソングは、神の愛と正義です。」(MSG)

神の国の国民のテーマソングは、「神の愛と正義」だと言います。具体的には2節にこのように詩人は歌っています。

「私は潔白な道を歩もうと心がけていますが、神の助けなしには何もできません。特に、私の家において、あなたの御心に添って歩むことができるよう助けていただきたいのです。」(LB)

まず、日常の生活の中で、神の助けをいただきながら、自分ができる最善を行なっていくことが、「神の愛と正義」をテーマソングにして生きていくということだと言います。

「あなたの御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように。」