使徒 6章

「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(4節)

ユージーン・ピーターソンという学者は言います。

「教会の中に罪があるので、教会に問題を抱えない人はいません。しかし、他にクリスチャンがいる場所はありません。」

教会における人間関係の摩擦は、残念ながら避けられないものなのだと思います。教会が誕生してすぐ信徒の中に対立が生まれました。使徒(教職者)たちは、聖霊に満ちた評判の良い信徒リーダーたちにこの問題を委ねて、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専心することにしました。

教会は気をつけないと、「祈りとみことば」の時間よりも、「会議(議論)」をする場になりかねないからだと思われます。

教会はまず何よりも、祈りの場でなければなりません。

聖書の御言葉が語られ、聖書を共に読み、学ぶ場でなければなりません。

問題に対処することに追われるならば、本来あるべき姿を見失ってしまいます。

「祈りとみことば」が教会のあるべき姿です。

使徒 4章

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(12節)

 グローバル化の影響もあり、私たちは他宗教との共存を真剣に考えなければならない時代に生きています。信教の自由は国家として保障され、互いに尊重される必要があります。それは受動的にも保障されるべきですが、能動的にも保障される必要があります。私たちは自分たちの信仰を公にすることも保障される必要があります。他宗教を信じる人たちを尊重しつつも、私たちはイエス・キリスト以外には救いはないことを公に告白し続ける必要があります。イエス・キリストを信じなければ人は救われないということは聖書が語る真理であり、本質だからです。LBはこう訳しています。

「この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」

使徒 3章

「神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」(26節)

ベン・ウィザリングトンという学者がこんなことを言っています。

「イエスはありのままのあなたを愛しているが、そのままで受け入れてはいない。イエスはあなたを変えたい。」

もし、私たちがこの世の価値観のままに生きているならば、必ずふるいにかけられる時がきます。私たちが神の国の価値観に立ち返るようにされます。聖書は言います。

「愛する皆さん。この地上では、あなたがたは単なる旅人であり、一時の滞在者にすぎないのですから、あなたがたのたましいに戦いをいどむ、この世の快楽から遠ざかりなさい。」(Ⅰペテロ2:11LB)

神がまず、神の御子、イエス・キリストを遣わしてくださいました。今日は主の日。神の国の価値観に生きることを選択できますように。」

使徒 2章

「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」(33節)

ペンテコステ(五旬節)の日、

「みなが一つ所に集まっていた」(1節)

ところに聖霊が臨まれました。

「神の右に上げられた」

という意味は、「神の権威が与えられた」という意味です。イエス様はもちろん、権威あるお方ですが、十字架の死と復活によって、天においても地においてもいっさいの権威を受けられました。イエス様もこのように言われました。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」

まさに、イエス様が栄光の御座に着座された証拠として、聖霊が注がれたということです。弟子たちは、この時、

「一つ所に集まっていた」

とあります。どんなにインターネットが普及しても、一つ所に集まっていた所に聖霊が注がれたように、今も一つ所に集まるところに聖霊が注がれます。

使徒1章

「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。」(15節)

聖霊が臨んで初代教会が誕生する直前、百二十名ほどの人が一緒に集まって祈っていました。教会はそこからはじまりました。私たちの教会では、この箇所から百二十名礼拝を祈り求めています。百二十名ほどの人たちが礼拝に集まり、共に祈り、賛美し、礼拝を捧げていく中で、神様が必ず素晴らしいことをなされると信じます。集まることに意味があることは次のイエス様の言葉からも明らかです。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)

申命記 34章

「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(7節)

モーセは彼の使命であった約束の地の手前まで人々を導くまで、目も気力も衰えませんでした。LBではこう訳しています。

「モーセは百二十歳の高齢で死んだのに、まだ視力は完全で、体力も若者のようでした。」

神様は私たちに使命を与えるだけでなく、その力も与えてくださいます。逆に言うのならば、私たちが神の目的に生きているならば、力にあふれて生きることができるということです。聖書は言います。

「神様を待ち望む者は、新しい力がみなぎり、わしのように翼を張って舞い上がります。いくら走っても疲れず、どんなに歩いても息切れしません。」(イザヤ40:31LB)

自分が何をしたいかではなく、神の使命に生きることが、充実した人生をもたらします。

申命記 33章

「太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、」(14節)

「太陽がもたらす賜物」というのは分かる気がしますが、「月が生み出す賜物」、暗闇の中で生み出される恵みというのは見落としやすい傾向があると思います。創世記の一章には、

「こうして夕があり、朝があった。」(5節)

とあり、聖書の一日は、日没からであることが分かります。私たちは日没が一日のはじまりという感じがしないと思います。しかし聖書的には、人生における月の夜が、神の奇跡の一日のはじまりなのです。暗闇の月の夜に多くの尊い賜物が私たちに生み出されるのです。詩篇にこういう箇所があります。

「結局、神様から懲らしめられたことは、この上ない幸いだったのです。おかげで、はっきり目をおきてに向けることができました。」(119:71LB)

申命記 31章

「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(8節)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「神様が味方だから、恐れてはならない。神様はいつも先頭に立ち、途中で見放すことも、見捨てることもなさらないのだ。」

この素晴らしい約束は旧約聖書だけではありません。新約聖書のヘブル人への手紙にもはっきりとこう記されています。

「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」(13:5)

使徒パウロは言いました。

「あなたがたの内面に良い働きを始めた神様は、引き続き、必ずそれを恵みのうちに成長させ、やがてキリスト・イエスが帰って来られる日に、ついに完成してくださると、私は堅く信じています。」(ピリピ1:6LB)

神様は私たちを途中で見放すことなく完成してくださいます。

申命記 30章

※ 本日は母の日。すべてのお母さんに感謝します。SSCの第三礼拝はお休みです。

「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」(14節)

ある教会では、メッセージの前にいつも聖書を持って、こう宣言しています。「これは私の聖書です。聖書が言う私が私です。聖書がもっているというものを私は持っています。聖書ができるということを私はできます。今日、私は聖書に教えられます。私は大胆に告白します。私の頭は注意を払います。私の心は受け入れます。私は決して同じではありません。イエス様のみ名によって。」私たちも、聖書を開くときに、このような聖書信仰の姿勢を持つことができればと思います。「あなたはこれを行うことができる」と聖書が言うのですから、自分の経験や誰かの意見よりも、神のみことばを信じるべきではないでしょうか。
今日は主の日です。共に主のみことばを受けとめていきたいと思います。

>母の日

今日は母の日。
近所のコンビニでもカーネーションが売られています。そんな母の日の始まりが教会であったことを御存知でしょうか。1907年、ウエストバージニア教会でアンナ・ジャービスという方が二年前に亡くなった自身の母を思い、「生きている間にお母さんに感謝の気持ちを伝える機会を設けるべきだ」と、母の日を働き掛けたことが始まりとされています。日本では明治時代からキリスト教会、教会学校を通して少しずつ浸透していきました。カーネーションを贈る習慣は、アンナの母親が白いカーネーションが好きだった、ということに由来しているそうです。そう考えるとカーネーションにこだわる必要はないかもしれません(私はバラが好き)。お母さんの好きな花を、お母さんの好きだった花を飾って感謝の思いを表す。そんな一日も素敵だと思います。こうやって書きながら、私自身が実家の母にまだ何も贈っていないことを思い出しました、、。これから電話をして、『おかあさん、いつも本当にありがとう。』と伝えます。(小山晶子牧師夫人)

申命記 29章

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」(29節)

神はすべてのことをお示しになっているわけではないと言います。隠されていることがある、神だけがご存知のことがあると言います。聖書に明言されていないグレーゾーンがあるのは事実です。それで、教会が民主化すると混乱します。神のみこころは、人の思いを超えた所にあるからです。議論を積み重ねるのではなく、祈りを積み重ねなければ、衰退します。しかし、はっきり示されていることがあります。聖書に明言されていることがあります。私たちは明言されていることに関しては聴従することが求められています。イエス・キリストを信じるならば救われる、永遠のいのちがあるというのは、明言されています。私たちは、神の国の福音に生きていく責任があります。